牟岐町海の総合文化センターの緞帳制作秘話【小栗加代子さん・満石和代さん・大梅謙治さんインタビュー】

昨年、2024年は牟岐町海の総合文化センターの開館30周年でした。1994年に建設されて以来、2階のホールには阿波しじら織が散りばめられたパッチワークキルトの緞帳が30年間変わらず、牟岐町の成人式や町の文化祭、フォーラムなど大切な文化的な行事の幕を開けてきました。

当時、緞帳の制作を行ったパッチワークキルト作家である小栗加代子さん、共に制作に携わった満石和代さん、牟岐町海の総合文化センターの建設当時に教育委員会で担当をしていた大梅謙治さんにお話をお聞きしました。小栗さんは長野県のご出身で、東京の大学で牟岐町出身の旦那様と出会われたことから、牟岐へ移り住まれました。パッチワーク作家として、全国的にご活躍されており、牟岐町内では千年サンゴやムクノキの作品を制作されたり、出羽島アート展や小学校での展示もされてきました。

Q1. どのような背景があり、この緞帳を制作することになったのでしょうか?

大梅さん:約30年前、牟岐町教育委員会で勤務していて、現在の牟岐町海の総合文化センターが建設されることが決まりました。その建設予定の建物の全体像を見て、私は「牟岐らしさがあまりないな」と思いました。そこで、小栗さんに「10億円以上かけて新しく文化センターができるんだけど、パッチワークキルトでホールの緞帳を制作できないか」とお話ししたのが始まりですね。建設予定の2年前から、北海道の旭川の公民館に田園風景が描かれた緞帳を見に行ったり、京都の緞帳屋さんに下見に行ったりと、準備を行いました。

小栗さん:その頃、県内に約10教室を持っていたので、徳島市や鳴門市、那賀町などにいる総勢100人弱の県内の生徒さんと一緒にやったら面白いことになるなと思って、引き受けることにしました。皆さんが縫えるように、体育館に生地を置いて、お教室ごとに担当部分を分けて、最終的に大きな1枚にするということをしました。全て手縫いで、2年かけて縦6メートル、横16メートルの緞帳が完成しました。

Q2. 作品について、特徴などを教えてください。

小栗さん:左下には牟岐町、上のベージュやオレンジは南国の燦燦たる太陽、そこから牟岐町の友情や情熱、希望や平和が広がっていくというイメージで下絵を描きました。私は長野生まれなので、こんなに強い太陽は知らなかったんですよね。

満石さん: 太陽のところは光が降り注ぐような感じで、上からまっすぐなキルティングをしています。緞帳の12個の丸は牟岐町内の人だけで制作しましたが、みんな好きなパーツを持って帰って、例えば赤は情熱など、ひとつひとつに意味を込めました。

小栗さん:自分の好きな生地を縫い込んでもいいよと言って、制作に携わった人の生地が縫い込まれている部分もありますね。
私の作品は、阿波しじら織を使用するのが特徴で、縞やチェックの生地で作品を作るのを長年やってきました。独特の手触りなので、キルト展に出しても面白がられます。阿波しじら織は藍色がすごく綺麗に出る生地で、海の部分には濃い藍色の生地や薄い藍色の生地を組み合わせて、さらに波の形でキルティングしています。この前の全国展でもパッチワークの生徒さんがどうしてもこの緞帳が見たいと来てくれましたね。しじら織を使って、キルティングもしているので丈夫で、30年経った今でも綺麗に残っています。

満石さん:この前久しぶりに見たけど全然傷んでなかったもんね。
これだけ多くの種類の生地を小栗先生がひとつひとつ指定したんですよ。徳島市のしじら屋さんから仕入れた、見たことのないような模様のしじら織がたくさん縫い込まれています。仕入れの関係で、ひとつのしじら織につき、10反ぐらいは購入していたよね。この中でいまでも残っているしじら織は少ないと思います。

小栗さん:ここのキルト見てほしい。これ全て手縫いなんですよ!

満石さん:キルティングをしているからこそ、波の立体感が綺麗に見えるんですよね。
普通に布を縫い合わせただけではこの立体感は作れません。

Q3. 緞帳を制作する上で、気を付けたことや大変だったことはありますか?

大梅さん:文化センターは公共施設で人がたくさん来る場所なので、防炎処理を施す必要がありました。だから京都の緞帳屋に持って行って防炎処理をしてもらいましたが、防炎処置をするとどうしても縮むとのことで、それも計算して制作してもらいました。

満石さん:だから制作したときは完成した時のものより大きく計算して作りました。
牟岐少年自然の家の体育館を借りて、下書きのデザインの通りにひとつひとつのパーツを並べて、数日間みんなで寝泊まりしながら最終的なデザインを完成させました。小栗先生は体育館の上に登って全体のバランスを見ながら、例えば「3列目の5番目の赤を○○さんが持っている赤と替えて」と指示を出されていて、すごくおもしろかったですよ。

小栗さん:ひとつひとつの生地をパターンというのですが、15cmを基本として、半分にしたり、2倍にしたりして組み合わせています。パッチワークは、裏地、綿、トップの3層でできていますが、一目一目短い針を使って木綿の糸でみんな手縫いします。ひとりひとりのパーツが出来上がると、またほかの人のパーツを組み合わせていきます。

満石さん:みんな担当のパーツを膝にのせて、1ミリずつ手縫いしていくんですよね。私はひとつの丸を縫ったのですが、丸の周りを縫ってくれた人と生地をピタッと合わしていきました。私はこの頃、本格的には習っていなかったので、「隣の人と合わなかったらどうしよう」と思いながら縫いましたね(笑)作品が大きいので、10人の人が1センチずつ違ったら10センチ違ってくるからね。もう嫌だと言って泣いていた人もいたよ(笑)

小栗さん:きつめに縫うひとが1メートル分したら、隣の人と合わないってなっちゃうんですよ。少しでもズレていれば間ができてしまうので、縫った部分を解いたり、寸法をどうにか合わせたり。あとは、下の飾り紐のフリンジは緞帳屋さんがサンプルを持ってきてくれたのですが、それが作っているものと合わなかったので糸から染めて作りました。

大梅さん:先ほど言ったように緞帳は丈夫に作ってもらいましたが、開幕するときにも緞帳が傷まないように気を付けました。様々な緞帳の上げ方がありますが、くるくると巻き上げるのではなく、三段織にパタンパタンと上がるようにしました。

小栗さん:そうですね。そこも話し合いながら、試行錯誤したところですね。

Q4. では、この記事を読む牟岐町民や牟岐町に関わりのある方々に向けてメッセージをお願いします。

小栗さん:一般的なパッチワークキルトだと、こたつ掛けやおくるみなど、普段使いができるものとして親しまれています。そのため、パッチワークキルトは「平凡な女の生きた証」であるということを伝えてきました。当時、この緞帳に「生きる」というタイトルをつけたのは、県内の100人弱の生徒さんたちと共に制作したこの緞帳が、みんなの「生きた証」として永久に残るものになると感じたからです。
是非、牟岐町を訪れられた際には、緞帳を見てほしいです。いろんな人に客席から、一針一針、色と構図に託した私たちの情熱をストレートに受け取ってもらいたいと思います。

最後に、小栗加代子著「もめんの詩 パッチワークキルト作品集Ⅱ『四季』」(まちかどプレス編集室, 1998年)では、下記のように記していました。

「牟岐町海の総合文化センターの大ホールの緞帳は、私たちのグループのフレンドシップキルトであります。この緞帳は見る人に生きる勇気を与えます。それは、延べ人数にすると3000人もの人の意気と情熱と真心で創られたものだからでしょう。どうぞ皆様、人生に負けそうになったら牟岐の緞帳を見に来てください。きっとまた、歩き出す勇気が湧いてくるでしょう。」

緞帳は、制作から30年経った今でも全国的に高い評価を受けています。昨年10月に開催された「パッチワークキルトO.Q.S全国展 in 徳島」においても、多くの人がこの緞帳を目当てに訪れました。これからも緞帳は牟岐町の大切な瞬間の幕開けを飾り、見る人に勇気や情熱を届けるでしょう。

ライター:牟岐町地域おこし協力隊 真武

娘が生まれた事をキッカケに独立と移住 – 【Webメディア TOCHANTO(とうちゃんと)】 八木俊樹さん

今回話を伺ったのは八木俊樹さん(31歳)。大手総合情報サービス企業に務めていましたが、娘さんが生まれたことでその会社を辞め独立。2024年3月には大阪から家族で牟岐町へと移住。娘さんが生まれたのを期に八木さんの奥さんのご出身である牟岐町へ移住することを決めたそうですが、どのようにして移住するまでに至ったのでしょうか?

転勤よりも家族との時間を

ー 牟岐に移住をされたということでその経緯をお聞きできたらと思いますが、もともとご出身はどちらでしょうか?

出身は広島県の尾道市です。大学の時に大阪に出てまして、学生時代に妻と出会いました。その後2016年4月に新卒でリクルートという会社に就職をしまして、兵庫県、岡山県、熊本県と結構転々と転勤を繰り返していました。その後2023年の1月に独立をしてしばらく大阪で暮らしていまして、牟岐町に移住をしたのは2024年の3月になります。

ー 小中高は尾道で過ごしていたのでしょうか?

そうです。

ー リクルートを辞めて独立。そして牟岐町へ移住とは、どんな理由があったのでしょうか?

先ず、独立を決めたのは娘が生まれた日でして、娘の顔を見たときに家族との時間をできる限り増やしていきたいなと思ったのがキッカケです。その年の年末(2022年)に退職をして、独立をした形になります。

ー 会社に勤めているとなにかと忙しく、家族との時間を作るのが難しかったのでしょうか?

僕が岡山県にいる時に、妻は大阪に住んでいまして別居婚のような形で結婚生活がスタートしたんです。当時、大阪へ異動を希望していたのですが、蓋を開けると熊本に異動になりまして(笑)。

ー ん?それは奥さんもご一緒にですか?

いえ、妻は大阪で公務員をしていたのでもちろん1人です(笑)。この時にはじめて「転勤生活というのは家族と一緒に過ごすことはできないんだな…」と実感をしまして、違和感を感じました。それまでは会社を辞めるつもりは全くありませんでしたが…ましてやどこかに移住するなんてことも考えてもいませんでした。そこで独立という考えが少しあって、娘が生まれてそれが強くなったといった感じです。

ー 大阪を希望しているのに、より遠くに異動とはなかなかですね(笑)

異動する場合、ステップアップとしての異動なので喜ばしいことではあるので、いつも異動の際にはポジティブに捉えていましたが、その時初めてポジティブには考えられなくなりました

ー 熊本にはどのぐらいいたのでしょうか?

一年いました。その間もずっと戻してくれと上司に交渉をしていまして、一年後には大阪に戻ってこれました。

ー そこで娘さんが生まれ独立を決めることになるわけですが、どんな業種で独立をするなど決めていたのでしょうか?

それが全く決めていなくて(笑)。ただ、この会社にいる限りは転勤が避けられなかったので、とりあえず辞めようと。

ー 先ずは辞めるのが先だったと。

そうです。2022年の7月に娘が生まれたので、8月にはすでにそれを会社に伝えていました。共働きでしたし、貯金などを考えれば一年ぐらいはゆっくり考えられるかなと思っていましたのですぐに転職してってことは全く考えていなかったですし、リクルートの先輩方は独立されている方がたくさんいらっしゃったので、自分もなんとかなるかなと。

ー 確かにリクルートという会社はある種特殊というか、辞めるのが前提のような会社というイメージを僕は持っていますので、そもそも辞めることも抵抗がなかったと。

それはあるかもしれませんね。

ー リクルートでは新規事業を立ち上げる部署に所属していたのでしょうか?

僕は飲食情報関係の営業部に所属していましたので、飲食店に直接飛び込み営業などもしていました。名刺を破られたりなどありましたね(笑)。

ー 過酷な環境でお仕事をされていたんですね。

それが当たり前の社会で生きてきました(笑)。

ー すごいですね。僕はそうした経験はないのである種羨ましいというか、そうした経験をするには相当な勇気が必要です。八木さんはそれを乗り越えてきたんですね。

会社を辞めはしたが、そうした環境が嫌だったわけではないとも笑いながらお話をしてくれました

里帰り出産を機に牟岐での生活が

ー 独立するにあたり、どのように展開していったのでしょうか?

自分は営業経験しかなく営業しかできなかったので、企業様の営業が足りていない部分を補う”営業代行”という仕事と、リクルートに在籍している時にキャリアコンサルタントという資格を取得していたので、キャリアコンサルタントの仕事を軸にスタートしていきました。

ー なるほど。辞めた当初は何をするか全く決まっていなかったけど、自分のできることを考えたら自然とそうなっていったといった感じでしょうか。

まずは自分の経験から稼げるものをと思って考えました。これらだったらすぐにでもできるかなと思いまして。なので最初はとある大学の大学生の就職支援を行っていたりしましたし、残りの日は営業代行をしていました。

ー その傍らで子育てもしていたのでしょうか?

こうした仕事は週3日ぐらいで入って、残りの4日は家族との時間を過ごすようにしていました。

ー それが娘さんが生まれて間もない大阪での生活だと思いますが、その後牟岐町に移住することになったのはなぜでしょうか?大阪の暮らしも非常に順調に感じますが。

もともと移住は全く考えていませんでしたし、妻が公務員だったこともあり、大阪から離れることは考えていませんでしたが、ひとつのキッカケは妻の里帰り出産でした。その時の一年の半分ぐらいは牟岐で過ごす事が多かったんですが、自然が豊かで暮らしやすいなと感じましたし、大阪だとお互いの両親のサポートを受けにくい環境になってしまいます。なので牟岐にいる事で妻の両親のサポートを受けられるのは自分たちにとって大きかったですね。

ー 里帰り出産の際、牟岐に滞在している時もリモートでお仕事をされていたんですね。

モラスコむぎのコワーキングスペースを使って仕事をしていました。一ヶ月まるまる牟岐にいることもあったので、モラスコむぎには当時から本当にお世話になってます

ー 移住する前からそんなに利用されていたんですね。

そうなんです(笑)。決め手のひとつとなったのは保育園もあります。大阪だと「ここの保育園は良いけど倍率が…」「こっちの保育園は…」みたいな話がありますが、牟岐だったら一択だったので実は大きい(笑)。それで僕はこっちでも働けそうだし、妻もちょうど牟岐町役場の採用情報を見つけて、これが受かったら移住しようということで。それで無事採用され移住に至りました。

ー 奥さんも移住に関して全然後ろ向きではなかったんですね。

妻はもちろん地元ですし、僕も田舎育ち。夫婦で「こういった環境で子育てした方が良いんじゃないか?」みたいな感覚がありました。

ー そこで尾道という選択肢はなかったのでしょうか?

ああ…なかったですね。

ー それは興味深いですね。なぜでしょう?

それは、僕がこの数年で単純に牟岐が好きになっていたのはあるかもしれません。尾道よりももっと自然を感じられる感覚があって

現在、奥さんのご実家にご両親と一緒に住んでいるそうですが、普通であれば気を遣ってしまいそうです。八木さんはその辺りはわりとへっちゃらだと。

それはもう妻のご両親が素敵な方だなので。感謝感謝です!

子育てにサーフィンに磯釣り

ー 2024年3月に移住をして半年以上が経ちますが、連続して生活してみていかがでしょう?

めちゃくちゃ良いですね。仕事面では牟岐に来てから同世代の子どもを持つ父親にフォーカスをあてたWebメディア『TOCHANTO(とうちゃんと)』を立ち上げ、2025年から本格的にスタートさせています。

八木さんが立ち上げたWebメディア『TOCHANTO』

『遊観』や『モラスコむぎ』も使ってお仕事をすることも多いそうです

自由に表現する事を伝える場所-【遊観】下之坊竜治さん・堀江奈々子さん

仕事のスタイルは、基本的には夜8時頃になったら娘と一緒に寝て、明け方3時半には起きて6時まで仕事をして、そこから保育園に行くまで家族で一緒に過ごして、保育園に行っている間は仕事をして、16時に娘を迎えに行くので、保育園にいない時間はほとんど娘と一緒にいますね。

ー とても素敵な時間の使い方ですね。では牟岐での生活は自然を満喫するというよりは自然環境に身をおきながら家族との時間を大切にするといった感覚なのでしょうか?

そうですね。ただ僕自身は牟岐に来てからサーフィンをはじめたりしています。友人に連れて行ってもらった時に地元のサーファーの方々がすごく良くしてくれまして。牟岐だからこそハマれたと感じています。あと妻のお父さんが磯釣りをやっているので、何度か一緒に連れて行ってもらって、釣ったグレを娘に食べさせたりなどしています。今年は釣りにもハマりたいですね(笑)

写真提供:八木さん

ー すごい!サーフィンに磯釣りって、牟岐ならではな良いところを楽しんでいますね!

そうですね(笑)めちゃくちゃ牟岐の生活を満喫していると思います。なので、僕にとっても家族にとっても移住は正解だったと思います。保育園も10人ほどのクラスに先生が3人4人と付いてくれて本当に手厚い。大阪ではありえないです。こんな有り難い環境はないなと思っています。

今後は農業やイベント展開も

ー では最後に、今後の展望などがありましたらお聞かせください。

先ずは先程も紹介した『TOCHANTO』の事業を軌道にのせることが2025年の目標です。「働く場所がないんじゃない?」と大阪の友人などにもよく言われますし、その通りだと思っています。今後はTOCHANTO(とうちゃんと)を通じて、牟岐に興味を持つ人を増やしたり、牟岐の働く場所になるような事業・企業にしていきたいと思っています。あともうひとつ牟岐でやっていきたいことは『農』です。

写真提供:八木さん

ー へぇ。なぜ『農』なのでしょうか?

TOCHANTO(とうちゃんと)もそうなのですが、「家族の幸せと子どもの将来を守る、つくる」ことを自分のテーマとして活動していきたいと思っています。僕にとって、家族の日常や、娘のふるさと、将来を守る、つくることを考えた時に、やっぱり「食」は大きな軸になるし、大きな「課題」でもあるとこの1年牟岐で暮らしたことでより感じるようになりました。だからこそ小さくでも「農」には関わっていきたいと思っております。

あとは遊観やモラスコむぎを使って、町の皆様と一緒に家族が集まれるイベントなども積極的に行っていきたいなと思っています。TOCHANTO(とうちゃんと)と掛け合わせて色々できると感じています。

長年勤めた会社の退職に、子育て、独立、移住、そして新規事業の立ち上げなど、短期間で経験していることは決して誰でもできることではないし、それ相当の苦労があるはずですが、終始笑いながらお話をしてくれた八木さん。非常にポジティブなエネルギーを持った心の強い方だと感じました。また、このインタビューは遊観で行ったのですが、その後は遊観を運営している下之坊さんとこれからやっていきたいイベントの打ち合わせをしていました。ここでお話してくれた以外にもまだまだやりたいこと、やるべきことが八木さんにはあるので、今後の八木さんの動きに注目したいと同時に、牟岐町で起こることにも期待をしたいと思います。