牟岐の「余白」に飛び込んだウォーターボーイズ | COAs代表 高木裕人


徳島県海部郡牟岐町の青く澄んだ海を舞台に、近年、県内外から多くの若者たちが訪れ、活動の拠点を構えるようになっています。この小さな港町に東京から飛び込んできた一人の大学院生がいます。

一般社団法人COAs(コアズ)の代表理事を務める、高木裕人(たかぎゆうと)さんです。立教大学大学院に在籍しながら、東京のシェアオフィスでコミュニティマネージャーとして働き、さらに非営利型の法人を牽引して牟岐町で「牟岐未来サミット」をサポートするなどその活動は多岐にわたります。

コロナ禍の大学1年時から数え切れないほどの団体を立ち上げてきた彼が、なぜ遠く離れた牟岐の地に惹かれ、この町の「余白」に身を投じたのか。若者の「世界観」を守る盾となり、東京と徳島を循環させるという構想の背景と、今後の展望についてお話を伺いました。

コロナ禍から生まれた「COAs」

ーー本日はよろしくお願いします。高木さんが牟岐町に関わりを持ち始めたのかを聞いていきたいのですが、先ずはどのようにして牟岐町と関わることになったのか?そもそも牟岐町をなぜ知ることになったのかといったことから教えてもらえますか?

高木さん: よろしくお願いします。最初は牟岐町で活動する、NPO法人牟岐町キャリアサポートの大西さんと出会ったところから始まるのですが……その前に軽くCOAs(コアズ)の紹介をしていいですか?

ーーお願いします。

高木さん: 自分が2020年に立教大学のコミュニティ福祉学部に入学したのがすべての始まりなんです。あらゆる社会問題はコミュニティで解決できるというコンセプトがすごく気に入って入ったんですが、当時まさかのコロナ禍で。

ーー2020年というとまさにパンデミックの始まりの年ですね。

高木さん: そうなんです。コミュニティ作りの学部に入ったのに、少なくとも「半年は家を出ちゃダメです」「ずっとオンラインで授業を受けてください」といった状況になってしまって。秋ぐらいになり「せっかくコミュニティ作りのために入ったのに、もう大学1年が終わっちゃうじゃん」って焦りました。そこで10月に自分で学生団体を立ち上げてみようと思い、COAsとは別のコミュニティ団体を立ち上げました。

当時は学生団体を立ち上げる人が珍しくて、「どうやって立ち上げたの?」「一緒にやろうよ」と色んな人から声をかけてもらいました。そこから気付けば、数え切れないくらいの団体を立ち上げてきまして。

ーーええ?数え切れないほどですか。すごい行動力ですね。どうやってそんな数多く立ち上げるのでしょうか?

高木さん: 僕は基本的に1人ではやらないって決めていて、仲間がいるならやるというのをモットーにしているんです。誰かがこういうのをやりたいというのに対して、「じゃあ俺も協力しようか」と乗っかったり。立ち上げるのが好きというよりは、誰かと何かをやっているのが好きなんです。たまたま立ち上げるのが人よりほんのちょっとだけ得意だっただけなんです。

そうして活動する中で少しずつコロナ禍が収まってきた2021年の9月に、オンラインで全国のアクティブな学生をネットワークする団体として「COAs」を立ち上げました。そこからメンバーの要望で高校生向けのキャリア教育のワークショップをやるようになり、徐々に依頼も増えてきました。

自分がやりたかったコミュニティ作りとライフキャリア教育を軸に、2023年1月に一般社団法人として法人化しました。そのタイミングで1年間休学して、本腰を入れて取り組むことにしたんです。

牟岐町との出会い、そして「遊観」の魅力

ーー休学してまで法人化をしたんですね。では、そこからどうやってこの徳島県の牟岐町と繋がっていったのでしょうか?

高木さん: 共通の知人で、人と人をつなげるのがすごく好きな東京都の水道局の職員さんがいるんです。その人から「若者がたくさんいて面白いことをやっている地域があって、そこに面白い人がいるから繋げたい」と、牟岐町の大西さんを紹介してもらいました。ちょうど大西さんが東京に来ていた2024年の1月に初めてお会いしました。

大西さんが理事を務めるNPO法人

ーーそこでなにかピンと来たのでしょうか?

高木さん: 大西さんと話して、激しく共感してしまったんです。僕は若者が描く未来像ややりたいことを「世界観」と呼ぶようにして大事にしているんですが、その一人一人が持っている世界観や自分らしさを発揮させたいという思いを大西さんと共有できて。それを牟岐でやってると聞いて、「じゃあ1回行かせてください!」となりました。

ちょうどその1ヶ月後の2024年2月に、大学の研究で愛媛と高知と香川を1週間回る予定があったんです。徳島だけ行かない予定だったんですが徳島も行きますと、最後の1泊2日を追加して牟岐に来たのが最初です。

ーーすごいフットワークの軽さですね。最初の目的は何か具体的なプロジェクトがあったわけではないのでしょうか?

高木さん: ええ、最初は本当に「一旦行きます」くらいのノリです。大西さんとすごく共感しちゃったんで、やっぱり1回行ってみないと話が進まないなと。

ーー牟岐町を自主的に選び、何かを得ようとしていたのだと思いますが、実際に初めて牟岐に来てみて、どんな印象を持ちましたか?

高木さん: 最初の印象は、大西さんに連れて行ってもらった「屋形船」というお店です。海鮮がすごく美味しくて(笑)。やっぱりご飯が美味しいのは大事だなと。

それと「遊観」にも連れて行ってもらったのですが、遊観の空間感や竜二さんの人柄のことが大好きになっちゃって。あの空間が本当に居心地がいいなと感じました。

自由に表現する事を伝える場所-【遊観】下之坊竜治さん・堀江奈々子さん

ーー遊観は独特の魅力がありますよね。他にも牟岐の環境で惹かれた部分はありますか?

高木さん: 自分は5歳の頃からずっと水泳をやっていて、泳ぐのが好きなんです。高校の時は、映画の『ウォーターボーイズ』に影響されて、シンクロの男版みたいなものをやっていました。プールサイドでダンスしながらいきなり飛び込んで、水中で組体操をして投げたりとか。1公演45分くらい動き続けるんで死にそうになるんですけど(笑)、文化祭で300人くらい集まってくれて、ある種のショー的な演出が好きになりました。だから、海や川がある自然豊かな環境は根本的にすごく好きなんですよね。

ーーなるほど。その原体験があるから、海のある牟岐に自然と馴染めたのかもしれませんね。町全体の印象としてはどうでしたか?

高木さん: もっと真面目な視点で言うと、自分は今大学院で若者の関係人口をテーマに研究しているんですが、そういう意味で牟岐は「地域資源に溢れているな」と感じました。高台ハウスやターンファーム(学生らが牟岐に訪れた時に滞在できる施設の名称)など、こんなに小さな町なのに若者が関われる「余白」がある。これだけ余白がある町は例を見ないというか、そこがすごくいいなという印象でした。

提言から始まった「牟岐未来サミット」

ーーそして、そこからどうやって具体的な活動に結びついていったのでしょうか?

高木さん: 2回目の訪問は飛んで2024年の8月になるんですが、これがお仕事としてのものでした。大西さんがCOAsを信頼して任せてくれて、牟岐で暮らす若者や関係人口を集めて、今後の牟岐のビジョンを作る「牟岐みらい会議」の企画運営をさせてもらったんです。そこから継続的に牟岐でやっていきたいという思いが出てきました。

ーー大西さんの若者にいきなり重要なポジションを任せる思い切りの良さはすごいですよね。

高木さん: 本当にすごいと思います。その後、2024年の10月にまとめた提言書を牟岐町長に提出したんです。その際、COAsはあくまでコーディネーター役だったのですが、大西さんが「裕人の意見も入れてみなよ」と言ってくれて。

ーーそこで高木さんはどんな提案をしたんですか?

高木さん: その時、今回の提言書をまとめるために若者が一度に会した機会がすごく重要だなと思ったんです。今まで点で活動していた若者が集まる機会はなかなかなかったはずなので、「牟岐みらい会議」のような形で総合戦略に合わせて5年間、毎年8月に行いましょうと提言書の最後に入れました。そしたら町長がその場で「いいね、やりたいね」と言ってくださったんです。

ーー20代前半の若者の提言を町長がその場で聞いて「やりたい」ってリアクション、なかなかないことですよね。

高木さん: そうなんです。大西さんもそうですが、一見保守的に見える方に限ってそういう直感を大事にしているというか。保守と攻めのバランスが圧倒的で、若者としてもすごく乗っかりやすい環境を作ってくれています。実際にその1年後の2025年の8月に、第1回の「牟岐未来サミット」を防災をテーマに2泊3日で開催しました。


そして今回牟岐町に訪れているのは、今週の日曜日に実際の町の防災訓練に参加して、そのプランが有効かどうかを検証するために来ました。

若者の「盾」となり、実践の場を提供する

ーー少し話は逸れますが、若者ってやりたいことはたくさんあるけど、音信不通になったりとか、ある種の「無責任さ」があるのではないでしょうか。高木さんはその辺りをどう捉えていますか?

高木さん: わかります。自分もたくさん団体をやってきて途中でバグりました(笑)。

ーーバグってしまったのですね(笑)。

高木さん: 「若者期」というものがそういうものだと捉えられるようになったんです。その個人が悪いというより、通過点みたいなものだなと。だからこそ、パートナーシップを組むときに若者個人を信頼するのではなく、COAsという法人が責任を負って若者をアテンドするスタンスを取っています。若者団体って信頼を得るのが難しいからこそ、一旦うちで責任を負いますと。

ーーなるほど。組織として若者の盾になっているんですね。

高木さん: その代わり、嫌な大人やハラスメント気味な大人からは若者をしっかり守ります。こちらから大人側との関係を切ることも珍しくありません。大前提は若者が持っている世界観や作りたい未来を解放することなので、そうした大人と関わるというのは本末転倒ですから。

ーー大人として若者と関わる際、つい自分の人生を語ってしまい、老害にならないか心配になることもあるのですが(笑)。

高木さん: いや、老害になりたくないと思っているうちは全く心配ないですよ(笑)。経験値はあるけれどフラットに関わってくれる大人は、若者にとって実質的にメンターになっているんです。若者自身も自然体でいられるので、そういった大人の方はすごく貴重だと思います。

ーーCOAsの活動を通じて、若者にはどんな経験をしてほしいと考えていますか?

高木さん: 一歩を踏み出す経験と、誰かと協働する経験です。例えば、超有名なコンサルティング会社に就職した大学4年生のメンバーがいるんですが、彼女には「コンサルになるのに1円も稼いだことないのはコンサルとしてどうなの?」と話して、月に1回のカフェのポップアップ営業を始めてもらったんです。それを2年間継続した結果、キチンと就職することができました。若者は「やりたい」とは言うけどなかなかやらないので、いかに経験のチャンスを提供するかが重要だと思っています。

東京と徳島を「循環」させる未来へ

ーー具体的な実践を促しているんですね。では最後に、今後の牟岐との関わりや、高木さん自身の展望について教えてください。

高木さん: 牟岐では今後、ターンファームの奥にあるスペースを自分たちでDIYして、COAsの牟岐拠点を作ろうと計画しています。そしてゆくゆくは東京と徳島の若者を循環させたいと考えています。

ーー循環ですか。それぞれにどんな経験をしてほしいのでしょうか?

高木さん: 東京の若者には地方で活動する経験を通して、この景色の中で生きている人たちがどんな現実や課題に向き合っているのかを感じてほしいです。でも一番大事なのは「内省」する機会ですね。東京にいるととにかく忙しかったり、バイトしたり友達に会ったりしてしまいますが、牟岐のようなゆとりある余白の時間はある意味で日常から隔離されています。だからこそ、自分自身について深く考える時間を取ってほしいんです。

ーー牟岐の「余白」が、自己と向き合う時間になるんですね。では逆に、徳島の若者には?

高木さん: 徳島の若者には東京に来てどんどん刺激を受けてほしいです。東京のいいところは、映画やミュージカルといった「文化資本」が集積していることです。そして、人との繋がりである「社会関係資本」が圧倒的にあることです。そこでたくさんの刺激を受け、いろんな人に会ってチャンスを掴み、その経験を徳島に持ち帰ってほしい。そこを循環させることができたら、すごく面白いなと思っています。

ーーなるほど。東京と徳島の両方を知ることで、お互いに無いものを補い合えるわけですね。

高木さん: 実は自分自身も去年の12月に、地元の巣鴨・大塚にある「RYOZAN PARK」という複合施設にコミュニティマネージャーとして就職したばかりなんです。シェアオフィスやシェアハウス、プリスクールなどがある場所なんですが、一次面接の時にオーナーと「ここで何をやっていきたいか」で意気投合してしまって、最後は握手して終わったくらいで(笑)。

ーー面接で握手ってなかなかですね(笑)。では今は、会社員と大学院生、そしてCOAsの代表と、かなり多忙なのでは?

高木さん: RYOZAN PARKはオーナーを含めて15人ぐらいの小さな会社で、自分の活動と両立できそうなところを探していたんです。平日はそこで働きつつ、大学院は週に1回のオンライン授業なので両立できています。今回のように休みをもらって牟岐に来たりして、COAsの活動をライフワークとして続けています。

ーーなるほど。では今後も大学院で学びながら、そのスタイルを続けていくと。

高木さん: はい。学部の時にコミュニティ作りやNPOの経営は学んだんですが、就職するか起業するか迷った時に、自分自身がもう少し社会やこの分野について深く学んでから考えたいと思ったんです。ある種のモラトリアムというか、余白期間みたいな意味で大学院に進んだところもあって。あと1年通って、RYOZAN PARKで働きながらCOAsを続けていきたいですね。

ーー最後に、牟岐町には今後どんな町になっていってほしいですか?

高木さん: 正直に言うと、「牟岐にこうなってほしい」という思いは自分にはないんです。それは牟岐に暮らす人や、この町をアイデンティティとして持つ人が考えればいいことだと思っていて。自分は、そういう人たちが「どうしていきたいか」という思いに乗っかったり、町の一部をお借りして若者が自分らしさを発揮するための内省や経験の場を作れたらいいなと。これからも、若者が活躍しやすい、受け入れてくれる余白のある町であり続けてくれたら嬉しいですね。

ーー高木さん自身も、そして関わる若者たちもこれからの展開がさらに楽しみです。本日はありがとうございました。

インタビューを終えてふと合点がいきました。彼はずっと「水の人」だったんだなと。かつてプールサイドから水中に飛び込み、仲間とのパフォーマンスで観客を沸かせていた「ウォーターボーイズ」の少年は今、牟岐という広大な海(余白)に飛び込み、地域と若者を巻き込む新しい渦を作り出しています。

東京から潮の匂いを辿るようにしてやってきた彼は、ただ通り過ぎるのではなく、東京と牟岐の間で人を「循環」させる確かな流れを生み出そうとしています。若者たちの不確実さをも受け入れ、盾となって彼らの世界観を守り抜く強さ。彼らが自由に泳ぎ回れるこの町の余白が、これからどんな景色を見せてくれるのか、その展開にますます期待が高まります。

大学生は小さな侵略者?牟岐町に静かな波紋を広げる『ふらいき新聞』の挑戦

徳島県海部郡牟岐町。この小さな港町には年間千人を超える若者が行き交い、様々な形で町を盛り上げています。しかし、その魅力的な若者たちの姿は、必ずしも町の人々全員に知れ渡っているわけでありません。

そんな思いから「牟岐町に住む人」と「牟岐町で活動する若者」をつなぐために、一つの手作り新聞が産声を上げました。その名も『ふらいき新聞』。

発行元は牟岐町を拠点に活動する「NPO法人ひとつむぎ」。この春休み、彼らが拠点とする場所に集まったのは、同紙の創刊号を作り上げた3人の大学生たち。それぞれが異なるバックグラウンドを持ちながら、牟岐という土地に引き寄せられ、ここで自分たちの居場所を見つけてきました。彼らはなぜ牟岐に関わり、そしてこれから何をこの町に残そうとしているのでしょうか。

NPO法人 ひとつむぎ
2015年にNPO法人として設立され、牟岐町を拠点に子どもと地域の出会いと学び、そしてつながりを大切に活動する団体。学生たちは地域の人々の温かさや自然の豊かさに触れ、「恩返しをしたい」「大学生だからこそできる形で地域に貢献したい」と、子どもたちや若者と地域をつなぎ、関わるきっかけを届けている。

ふらいき新聞
「ふらいき」は、大漁旗の別名で、漢字では「富来旗」と書く。若者が中心となって、まちに活気をもたらす旗を掲げる存在でありたいという願いを込めて名付けられた。2026年1月3日に創刊号が発行され、アナログな情報がいちばん届く牟岐町で、台所のテーブルに置いてもらえるような存在を目指している。

ゼロからイチへ。中学生を巻き込む新たな挑戦

ーー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介も兼ねて、皆さんの普段の活動や『ふらいき新聞』との関わりについて教えてもらえますか?

安藤さん:鳴門教育大学4年で、この春からは愛媛県の高校で社会科の教員になります、安藤瑞輝(あんどうみずき)です。牟岐での活動に関わる中で、『ふらいき新聞』ではライターとして記事を書きました。

ーー安藤さんは教員になるということで、この経験がどう活きていくのかも後ほど聞かせてください。では続いて、中田さんお願いします。

中田さん:中田枝佑(なかたしゅう)です。みんなからは「しゅうちゃん」と呼ばれています。瑞輝くんと同じ鳴門教育大学の4年生で、4月からは兵庫県で中学校の理科の先生になります。牟岐町に関わり始めたのは大学2年生の時で、子どもたちと一緒に平和学習や防災などに関わっていくうちに、牟岐町が自分の大切な居場所になってきたなと感じています。今回はライターとして参加しました。

ーー兵庫に行かれるんですね。牟岐が大切な居場所になったというのは素敵ですね。最後に元木さんお願いします。

元木さん:元木紀(もときはじめ)です。僕は香川大学の2年生で、経済学部で地域創生などを中心に勉強しています。生まれは大阪なんですが、10歳の時に牟岐に移住してきまして、今は牟岐町を地元だと思っています。親が牟岐の出身だったんです。今回の『ふらいき新聞』の発案者であり、一応、編集長ということになっています。

ーー元木さんが編集長として企画を立ち上げたのですね。活字が好きだとか?

元木さん:活字がすごく好きで、こういうのを書きたいなと思っていて。でも自分一人じゃなかなか動けないので、周りに「こういう方針でいきたい」と話をして、アイデアを形にしていきました。

ーー創刊号を読ませてもらいましたが、これはある意味で自己紹介的な「0号」のような位置づけなのかなと感じました。ここからどのように「1」を積み上げていくのかが気になります。これからの展望はどう考えていますか?

元木さん:今後の展望としてはこの活動に中学生たちを巻き込んでいきたいんです。創刊号の裏面にも「小・中学生記者、大募集!」と書いたんですが、中学生に4コマ漫画を描いてもらったり、記事を書いてもらったりしたいなと。

ーーそれは面白いですね! 具体的にはどうやって中学生を巻き込もうとしているんですか?

元木さん:実は明日、中学校の帰りのホームルームの時間をもらってプレゼンをしてくるんです。「春休みの間に交流会をするから、来たい人はおいで」ってチラシを配って。そこで大学生と話してみて、やりたいことを引き出していきたいなと思っています。

ーーなぜそこまで中学生を巻き込みたいと思うようになったのでしょうか?

元木さん:一番大きいのは、昔ひとつむぎがやっていたことを復活させたいという思いです。以前は中学生を集めて、彼らのやりたいことを大学生がサポートするイベントをやっていたんですが、コロナで途絶えてしまって。それを僕らでまた取り戻したいんです。「ふらいき」という言葉には、牟岐に大学生が来ていることに気づいてほしいという「旗揚げ」の意味も込められていますから。

ーーなるほど。中学生たちが自分で記事を書くとなると、なかなかハードルも高そうですが。

安藤さん:慣れていない子は時間がかかると思います。自分の思いを文章に載せて、それが町中の人の目に触れるわけですから、恥ずかしいという気持ちもあるでしょうし。

中田さん:でも、文章を書くのが好きなら記事を書いてもらえばいいし、写真やイラストが好きならそこを担当してもらえばいい。いろんな得意なものを集めて、みんなで作った作品が宝物になってほしいなって思っています。

卒業という節目。離れても続く関係性

ーー安藤さんと中田さんはこの春、大学を卒業してそれぞれ愛媛と兵庫で教員になりますよね。ひとつむぎを離れてしまうわけですが、今後この新聞や牟岐町とはどう関わっていくのでしょうか?

中田さん:私は何かしらの形で牟岐町に戻ってきたいという気持ちはずっと持っています。兵庫に行っても、例えば自分が教えているクラスの生徒にこの新聞を見せて、「先生が関わってきた場所には、こんな風に地元を大事にしている子どもたちや若者がいるんだよ」って伝えたいんです。それが、生徒たちの思いを読み解く力を育てるきっかけになるんじゃないかなと。

ーーへぇすごい。自分の赴任先の生徒たちに、牟岐の魅力を伝えていくわけですね。安藤さんはどうですか?

安藤さん:僕も似ている部分はあります。社会科の教員として、自分の住んでいる地域を見ることも大事ですが、遠く離れた牟岐町でどんなことが起きているのかを知ることは、生徒たちにとって一つの材料になると思うんです。僕の考えとしては、愛媛の高校生と牟岐町をつなげたいんです。合宿で牟岐に来てもらって、一緒に『ふらいき新聞』を作れたらいいなと。

ーーそれは編集長としてはテンションが上がりますね(笑)。

元木さん:爆上がりです(笑)。ぜひ実現させたいです。

ーー本日はひとつむぎの卒業式でもあるんですよね。お二人が卒業すると、ひとつむぎのメンバーも減ってしまうと聞きましたが。

元木さん:そうなんです。実動部隊が3人で、県外の子を入れても5人くらいになってしまいます。県内のメンバーが少なくなってしまうので、昔のように「ちょくちょく牟岐に来て活動する」というのは難しくなる。だからこそ、形を変えていかなきゃいけない変革の時期だと感じています。

次号のテーマは「防災」。東北での経験を牟岐へ

ーー形を変えながらも続いていくということですね。ちなみに、次回の『ふらいき新聞』のテーマはもう決まっているんですか?

元木さん:次は「防災」をテーマにした『防災ふらいき新聞』になる予定です。NHKから防災に関する取材の話があり、それに合わせて特化しようと。

ーー防災ですか。安藤さんは、大学で防災に関する活動に取り組まれたそうですね。何か記事にできそうなエピソードはありますか?

安藤さん:大学の防災研修で宮城県の被災地に行ってきました。そこで、東日本大震災の時に避難所として住民を受け入れた石巻の高校の元校長先生からお話を伺ったんです。そこで学んだのは、避難所運営における「役割分担」の重要性でした。

ーー役割分担ですか。具体的にはどういうことでしょう?

安藤さん:普通、避難所運営を図式化すると、上に本部長がいて下へと指示が下りる会社のようなトップダウンの組織を思い浮かべます。でも、災害発生直後の混乱の中ではそれは機能しないと。そうではなくて、メディア対応、衛生管理、避難者受け入れなど、それぞれの役割を明確に設け、その担当者が責任を持って判断して動くことが大事なんだそうです。いちいち上に確認していると時間がかかってしまうので、迅速な判断が必要だということです。

ーーなるほど。トップダウンではなく、個々が責任を持つフラットな役割分担が必要なんですね。それは牟岐町の防災を考える上でも、非常に重要な視点になりそうです。

中田さん:私も瑞輝くんの活動を傍で見ていて、防災への意識が高まりました。赴任先の兵庫県も阪神・淡路大震災の被災地ですし、生の話を聞く機会も増えると思います。自分が災害にどう立ち向かうか、その知識を『ふらいき新聞』にも還元できたらと思っています。

大学生は「小さな侵略者」?地域に静かに残していくもの

ーーお話を聞いていると、皆さん、特に編集長の元木さんの熱量が本当にすごいなと感じます。ただ、こういう活動って始めるのは簡単でも、やめずに続けていくのってものすごくエネルギーが要りますよね。町全体に新聞が配られたことで、プレッシャーを感じたりはしませんか?

元木さん:いや、実はあんまり考えてないんです(笑)。大学生という立場もあるし、どこかで「ダメなら逃げられる」という思いもあるんだと思います。無責任かもしれないけれど、だからこそ思い切ってできた部分もあるかなと。

ーーその「無責任さ」が逆にいい方向に働いているんですね。「逃げる」というと聞こえが良くなく感じてしまう人もいるかもしれませんが、僕もそれは同感です。

元木さん:僕の中で大学生って「宇宙人」みたいなイメージがあったんです。フラッとやってきて、フラッと出ていく。でも最近、大学生って実は「小さな侵略者」なんじゃないかと思っていて。

ーー小さな侵略者?

元木さん:はい。僕たちの知らないところで、こういうメディアを作ったり、看板をしれっと変えてみたり、地元のものを持ち帰ったりしている。そういうじわじわした侵略を、本やメディアという形でやっていけたらいいなと。

ーーなるほど。大きなシステムに組み込まれるのではなく、ゲリラ的に地域に影響を与えていくと。

元木さん:今の時代、色々なことがゲーム化や体験化していますが、体験ってどこかリアルじゃない部分があると思うんです。例えば猟師さんのところへ行っても、すでに捌かれた肉の切れ端をもらって「何を学んだんだ?」となったり。

ーー時代のうねりの中で、消えゆくものをアナログな新聞という形で手渡していく。それはとても大切なことですね。

インタビューを終え、彼らが口にした「大学生は小さな侵略者」という言葉が妙に腑に落ちました。フラッと牟岐にやってきては去っていく「宇宙人」のような彼らですが、確実にこの町に何かを残していきます。

創刊号という名の「0号」を世に出し、この春、二人は教員としてそれぞれ兵庫と愛媛へと旅立ちます。しかし、彼らの侵略は終わりません。遠く離れた教室で牟岐の魅力が語られ、また新たな若者がこの町を訪れるかもしれないからです。そしてひとつむぎに残る編集長は、中学生という新たな仲間を巻き込み、次なる「1号」に向けて静かに動き続けています。

「始めるのは簡単ですが、やめるのは難しい」。僕がこぼした言葉に、「ダメなら逃げられる無責任さがあるから踏み出せた」と言う彼ら。しかし、手作りの新聞が台所に置かれ、若者たちの「ふらいき(富来旗)」が掲げられた今、彼らはもう完全に牟岐の一部です。時代のうねりに抗うように、彼らがどんな次なる爪痕を残していくのか。いち牟岐人として、鮮やかな侵略劇の続きを心待ちにしたいと思います。

都会で暮らした二人が牟岐に求めたもの:徳島大学 岩田悠利さん・早稲田大学 相澤夢果さん

牟岐町の地域おこし協力隊インターンで紐解く大学生二人

徳島県南部に位置する人口約3,300人の小さな港町・牟岐町。この町には今、不思議なリズムが流れています。それは都会のような目まぐるしい変化でも、時が止まったような静止でもありません。

外から訪れる若者たちが、この町の日常にそっと溶け込み、自らの居場所を見出し、そしてゆるやかに入れ替わりながら新しい感性を吹き込んでいく余白のリズム。2025年秋、この不思議なリズムの中に飛び込んだ二人の学生がいました。


一人は、徳島大学医学部3年生の岩田悠利(いわたゆり)さん。3週間にわたる地域おこし協力隊インターンの活動を終えた彼女は将来、医師という専門性を背負う立場でありながら、なぜあえてこの町の「何気ない日常」に身を投じたのでしょうか。

もう一人は、早稲田大学4年生の相澤夢果(あいざわゆめか)さん。東京の真ん中で育ち、半年間のスペイン留学での生活を経て、縁あってこれから牟岐で地域おこし協力隊のインターン生活をスタートさせる彼女は、この町に何を求めて来たのでしょうか。

関西と関東という都会育ちながらも、対照的な背景を持ち、どこか深い部分で共鳴し合う二人の言葉を通じて、牟岐という町が持つ絶妙な距離感、町の生気、そして彼女たちが描こうとしている「生き方のデザイン」を伺ってきました。

キッチンカーとノリとタイミング

ーー今日はよろしくお願いします。二人とも今日が初対面ですよね?まずは簡単に自己紹介がてら、どうして今この牟岐という場所にいるのか、背景を教えていただけますか。

岩田さん: 私は大阪出身で大学から徳島に来ました。牟岐との出会いはキッチンカーなんです。私はお菓子やカレーなどを作るのが好きで、大学で非公認の間借りでカフェを開くサークルに入っているのですが、LINEのコミュニティで「牟岐にキッチンカーを持っている方がいる」ということを知り、連絡を取り、牟岐町のイベントに出店させて頂いたことがきっかけでした。

ーーかなり面白く、インパクトのあるきっかけですね。若い方が牟岐のような田舎町に来る理由って、「地域の過疎化」の現状を学ぶためだったり、一方で「豊かな自然」を求めて来る方が多い中、キッチンカーという人はなかなかいません(笑)。

岩田さん:もちろんそうしたことにも興味があります。地域医療や、牟岐町が取り組んでいる関係人口なども個人として興味を持ちつつ、カフェはみんなで楽しくというスタンスです。

すでにインターンを終えていた岩田さんだが、取材をさせていただいた日も一日カフェをしていた

ーー一方、相澤さんはどんなことがきっかけだったんでしょうか?

相澤さん: 私はずっと東京育ちで、小学校から私立で地元の繋がりがほとんどない環境でした。大学は今は休学中でスペインのバレンシアに留学をしていました。HLABのサマースクールで牟岐町のことは知り、2021年のコロナ真っ只中で、本当はその時に訪れる予定だったんですが、オンラインでの開催となり。2025年の2月にはじめて訪れました。

ーーその時はどんな滞在だったのでしょうか?HLABの関係でしょうか?

相澤さん:えーっと複雑なんですが、一応HLABの関係者としては来てました(笑)。HLABで知り合った春桜美(すおみ)が徳島に縁があり、私自身も牟岐には縁を感じていまして、それでたまたま関西を観光していた私を「関空からなら拾っていけるよ」ってタイミングがあり、そこに同乗してはじめて牟岐町に来たのが2025年の2月というわけです(笑)。

「ただ、ここが心地よいから」— 私が牟岐町とつながる理由 :鳥取大学 有賀春桜美(あるが すおみ)

ーーある種、ノリとタイミングで牟岐町に訪れることになったんですね(笑)。その時は何日滞在したのでしょうか?

相澤さん:えーっと確か1日か2日程度でした。役場に挨拶に行ったりとかなり慌ただしい滞在でした。

ーーでは、今回は2回目の滞在ということでしょうか?

相澤さん:はい、2回目の滞在です。以前の滞在時に、地域おこし協力隊のインターン制度ができるといったお話を頂いていていましたが、私が半年スペインに留学に行くこともあり、タイミングがあえば…なんて考えていたのですが、気がついたらここにいました(笑)。

関係人口として見つめる町の生気

ーーなるほど(笑)。でも自分の意思でここにいるんだと思いますが、地域おこし協力隊のインターンをやってみようと思った理由はなにかあるのでしょうか?

相澤さん:私は東京生まれ東京育ちで、いわゆる都会育ちです。なので地元という感覚が全くなく育ったんです。都会だと繋がりが希薄みたいなことが言われると思うんですけど、本当に希薄で。ただ単にそこに帰る家がある感覚です。

ーーそれは都会に住む皆さんがそういった感覚をお持ちなのでしょうか

相澤さん:どうなんでしょう…確かなことはわかりませんが、私の場合は隣の区にミニ引っ越しをしたりしたので、特に希薄みたいな環境だったかもしれません。
インターンに関しては、日本の都会は見た。海外もスペインのバレンシアを半年間見てみた。じゃあ次は日本の田舎と言われる場所に行ってみたいと思い、インターンの話も頂いていたので良い機会だなと思い、牟岐に来てみました。

ーーその感覚は僕も非常に良くわかります。相澤さんの環境ほど都会ではありませんが、都会と言われるエリアに暮らし、海外に数年住み、次はどこだ?と考えると日本の田舎だと。相澤さんはスペインから帰ってきて間もないわけですが、今どう見えています?

相澤さん: スペインに行って一番思ったのは、「日光を浴びると人ってここまで陽気になるんだ」ってことでした(笑)。街の構造も全然違っていて。東京だと道はただの「移動場所」なんです。駅や目的地に行くまでの「潰す時間」でしかない。でもスペインは、テラスでご飯を食べる文化が街中にあって、道に人が溜まって生活している。人同士の関わりというか繋がりはないんだろうけど、そこに温かみというか生きている体温を感じたんですよね。

ーーでは、その東京・バレンシアの比較対象として牟岐という田舎町はすごく良いと思うのですが、なにか期待しているようなこと、もしくはやりたいことはありますか?

相澤さん:人のためになる仕事が私は好きで、必要とされればなんでもやります!といった気持ちですが、本や文章を書くことが好きなので、そうしたことに絡めて活動につながれば良いなと思っています。また、関係人口として人とゆるく繋がっていけたらなと考えています。牟岐は東京と比べると「相互自助」というか、ゆるい助け合いがベースにある感じがします。東京の生活は、何でも整理して予定を立てないと人に会えないけど、ここはもっとカジュアルに人と繋がれる。そんな気がしているので、そういう生活を見てみたいと思っています。

ーー岩田さんはいかがでしょうか?地域おこし協力隊のインターンをやってみようと思った理由は?

岩田さん:医学部は狭いコミュニティだったりするんです。同じ人たちと一緒に6年間上がっていくだけなので。なのでもっと大学生のうちに色んな経験をしておきたいなと思い、地域の人と関わることもそうだし、キッチンカーをすることもそのひとつだったりします。
そこで、出店するとなるとイベントなので、基本的に賑わっている牟岐町ばかりを見てきていました。出羽島アート展や産業祭にも出店させて頂いたんですが、普段の牟岐町がどんな様子なのかをもっと知りたいなと思い、であればインターンとして暮らしてみるのが良いと思いまして。
あとは出店者として関わらせてもらってきたけど、今後どんな関わり方ができるのだろうと模索する意味もありました。

ーーインターンとしての活動はどういったことがありましたか?

岩田さん:最初からカフェをすることがテーマとしてあったので、カフェをしていました。カフェをすること自体は個人的な活動にもなるので、インターンの直接的な活動とは切り離しているのですが、カフェをする趣旨としては人と繋がれる場を提供することを目的として活動をしていました。
あとは青山学院生が牟岐町に実習に来ていたので、それに同行して産業についてのお話を伺ったり、出羽島に行ったり、牟岐で動いている若い方のところに行き、会を開き、そこでファシリテーターを務めたりしていました。
大阪大学の松本ゼミが来ていたので、その時はゆずについてのインタビューとかを学生と一緒に行っていました。

ーー実際住んでみていかがでしたか?

岩田さん:思ったより人が動いているなと感じました。もちろん人が居ない時は全然居ないんですが、その両方のバランスがあって良いなと。私が大阪出身ということもあり、人が多くて近所でも常に雑談が飛び交っていたり、大きな声で子どもが遊び回っていたり、時にはちょっと口喧嘩もしているみたいな環境でもあったので(笑)、牟岐町のようなバランスの取れた環境にはとても惹かれます。
では牟岐町に移住するのか、移住したいのかといったことは、今は医学部生としてまだまだ学ぶことがあるので考えてはいませんが、例えば両親のいる大阪に拠点を持ちつつ、こっちでも拠点を持つといったことも可能なんじゃないかと思っています。医者の働き方ってまだ選択肢がないので、このあたりは今後模索しながらといった感じです。

ーー大学を卒業してから、なにか決まっていたりするのでしょうか?

岩田さん:今3年生で、医学部は6年まであるので、まだなにも決まっていませんが、総合診療の道に進みたいなとは考えています。

対照的な背景を持つ二人の話に共通していたのは、決められたレールの上を歩むのではなく、自分らしい「生き方のデザイン」を模索するしなやかな姿勢です。

徳島大学医学部という専門性の高い環境に身を置く岩田さんは、あえてそのコミュニティの内側だけに留まろうとはせず、キッチンカーやカフェという表現手段を通じて、町の人々と直接触れ合い、温度のある関係性を築いています。
将来、医療の現場に立つ彼女にとって、ここでの経験は単なるインターンシップ以上の意味を持つことは想像に難しくありません。病気だけを診るのではなく、その人が暮らす風土や日常の喜びを理解しようとする「地域と繋がる総合診療医」への志が、牟岐の潮風の中で静かに力強く育まれている様子を感じました。

一方、東京の真ん中で育ち、スペインでの生活を経て牟岐に辿り着いた相澤さんは、この町に流れる「体温」を鋭敏に感じ取っているようでした。都会において「移動のための空間」でしかなかった道が、牟岐では立ち止まり、言葉を交わし、ゆるやかに助け合う生活の舞台へと姿を変えていく。
効率や利便性を最優先する価値観から一度距離を置き、自身の興味である書くことを通じて、目に見えない町の豊かさを言葉に紡ごうとする彼女の姿は、現代における新しい生き方そのものではないでしょうか。

彼女たちがこの町に惹かれるのは、ここには現代社会が失いかけている「余白」が残されているからだと僕は感じています。それは何もない空虚な空間ではなく、異なる背景を持つ者たちが互いのリズムを尊重し、干渉しすぎることなく混ざり合えるための「受け皿」のようなものとも言えるのかもしれません。
かつて遠洋漁業の拠点として多様な人々を受け入れてきた牟岐町特有の懐の深さが、今、新しい感性を持つ若者たちの居場所となっているのは、歴史の教えかもしれません。

地域に拠点を持ちながら働くことを模索する岩田さんの未来図と、牟岐での暮らしを通じて自身の関わりを形にしようとする相澤さんの今。二人の存在は牟岐に新しい生気を吹き込んでいます。

彼女たちの余白のリズムは、これからの牟岐の日常を、より豊かで奥行きのあるものに変えていくに違いないでしょう。二人の視線が交差するこの場所から、また新しい牟岐の歩き方が始まろうとしています。

2025年11月 徳島県牟岐町 ターンファームにて

 

ゼミの枠を飛び越え、期間限定の「町の一員」へ:京都産業大学 森野葵・堀池優那

地域おこし協力隊インターン生が綴る、この町で過ごしたそれぞれの2週間と1ヶ月

徳島県の南端、深い緑と透明な海に抱かれた牟岐町。冬の足音が近づくこの町には、大学生活の多くを捧げ、卒業という人生の大きな節目を数ヶ月後に控えた今、再びこの町に帰ってきた二人の大学生がいます。

京都産業大学・現代社会学部4年生の、森野葵(もりのあおい)さんと、堀池優那(ほりいけゆうな)さん。

就職活動を終え、すでに関西圏での新しい生活が決まっている彼女たちが選んだのは、卒業旅行でも単なる遊びでもなく、「地域おこし協力隊インターン」として、期間限定の「町の一員」になることでした。

今回のインタビューは、インターン最終日を迎えた森野さんと、一足先にインターンを終えていた堀池さんに、オンラインで画面越しという形で行いました。物理的な距離は離れていても、二人の会話からは牟岐での濃密な時間が手に取るように伝わってきました。彼女たちは何を見て、何を感じたのか。お二人の滞在中の足跡を辿りながら、その心の内に迫りました。

ゼミの枠を飛び越えて

ーーまず、お二人が牟岐町と関わるようになったきっかけを教えてください。

森野さん: 私は石川県の七尾市(能登)というところの出身で、高校の授業で「地方創生や町作りが面白そうだな」と、ふわっと思ったのが始まりです。大学では地域社会学を専攻して、2年生の秋から「木原ゼミ」というゼミに入り、その活動で初めて牟岐へ来ました。
ゆずを収穫して、ゆずを絞って、町の人たちと交流をして、町を探索してというところからスタートして、その後はゼミの枠を越えて個人的に旅行として来ていたりもしました。牟岐のワーキングホリデーというのにも一週間参加をして、観光協会とか泉源さんで職場体験もしました。
そうして牟岐町と関わっていく中で、地域おこし協力隊のインターンのお話もいただいたので、やってみたいなと思い、今に至るという感じです。

ーーインターンはすでに終わったんでしたっけ?

森野さん: ちょうど今日までなんです(取材日は11月18日)。私の期間は2週間で、優那はすでに終えていて1ヶ月間でした。

ーーでは次は、堀池さんが牟岐町に関わることになったきっかけをお聞かせください。

堀池さん: 私は奈良の住宅街で育ちました。いろんな人の助けになる仕事につきたいなと思い、最初は医療関係を志していたんですが、担任の先生に「もっと広い世界を知ったほうがいい」と言われて。メディアの学部に進んだ後、1年生の時に地域系の授業で話を聞いて「面白そうだな」と思って木原ゼミに入りました。
ゼミに入ってからの流れは葵とほとんど一緒で、ワーキングホリデーに行ったりして、牟岐町との関係が深くなりました。

ーー木原ゼミの活動は牟岐町だけに絞ったものではないと思いますが、なぜ牟岐町を選ぶことになったのでしょうか?つまり、牟岐町を自主的に選び、何かを得ようとしていたと思うんです。それが何かなと思いまして。

森野さん:これまでの訪問は遊びの側面もあったのですが、何度か通ううちに「何か町に貢献できることはないか」と考えるようになりました。単なる思い出作りではなく、インターンという形で責任を持って関わりたいという思いがありました。
4年生になるとゼミの公式合宿がなくなってしまいます。そのため、卒業して社会に出る前に、自分たちの意志でもう一度牟岐を訪れ、これまでの関係性を一つの形にしたいと考えました。

堀池さん:これまで関西圏しか知らずに育ってきたので、徳島とか牟岐という全く異なる環境で「実際に生活し、働く」ことが自分にどのような影響を与えるのかを知ってみたいと思っていました。就職すれば1ヶ月という長期間は休みはとれないので、社会人になる前のこのタイミングだからこそ、じっくりと腰を据えて町と向き合う時間を自ら選択しました。牟岐は自然も多くて人も優しく好きな場所だったので、好奇心が強かったのかもしれません。

ーーご出身の奈良県のエリアは、牟岐よりも都会だったのでしょうか?

地元は電車一本ですぐに大阪へ出られるような、ごく一般的な住宅街でした。 奈良には山はあっても海はなく、生活の中で自然を身近に感じる機会は少なかったんです。 だからこそ、牟岐に来て目にした豊かな緑や、夜空に広がる満天の星には、強く心を惹きつけられました。

実際に動いて見えた、牟岐のリアル

ーー地域おこし協力隊のインターンとして、具体的にどのような活動をされていたのでしょうか? 堀池さんは夏の良い時期に滞在されていましたよね。

堀池さん:私の活動は、万博の販売のお手伝いから始まりました。それから住民の方々に牟岐の「地域食」についての聞き取り調査を行い、その内容を授業として子どもたちに伝えるという活動もしました。
また、週に一度開催されていたサマースクールで子どもたちの勉強を見たり、町役場の方々を交えた防災ワークショップに参加したりもしました。
他にもイベントの運営のお手伝いなど、1ヶ月の間で本当に幅広い経験をさせていただきました。

ーー一方で森野さんは11月の2週間という短い期間でしたが、どのような活動をされていたのでしょうか?

森野さん:私は「これ」と決まった一つのプロジェクトをずっと進めるというよりは、日によっていろいろな活動に関わらせていただきました。
一つは、大学の合宿受け入れのサポートです。ちょうど母校である京産大や、山口県の周南公立大学のゼミが合宿に来ていたので、夕食の準備を手伝ったり、町づくりに興味がある学生たちのヒアリングに応じたりしていました。
二つ目は「ゆず」に関する視察です。高知県の馬路村や北川村といったゆずの産地へ足を運び、どのような産業が展開されているのか、栽培管理はどうなっているのかを実際に見学してきました。
三つ目はインターンの枠とは少し外れるかもしれませんが、自分の休みの日を使って、この場所(ターンファーム)で「1日カフェ」をオープンさせました。

ーーえ?ここでですか?

森野さん: はい、10時から16時まで一人でやったんですが、ずっと誰かが来てくれました。

ーーインターンの「業務」としての活動はもちろんですが、実は活動の枠を超えた時間の中にこそ、地域の本当の姿がある気がしています。そうした「余白」の時間で印象に残っていることはありますか?

森野さん:本当にそうですね。業務外の繋がりで一番印象深いのは、「モラスコむぎ(貝の資料館)」の木村さんが船で出羽島(てばじま)に連れて行ってくれたことです。「出羽島アート展」が開催されていたタイミングでは、教育関係のお仕事をされているアメリカ人の方とも一緒に作品を見ながら島を散策したり、島の細い路地を歩いたり……。単なる「観光」ではなく、そこに住む方や関わる方の日常に混ぜてもらったような、とても濃密な時間でした。他にも、町の方のお家にお邪魔して、食卓を囲ませていただくような機会も何度かあり、牟岐の「人の懐の深さ」を肌で感じることができました。

堀池さん:私は、地域食の聞き取り調査でお会いした方とのご縁が忘れられません。「今度、美味しい魚を捌くから食べにおいで」と気さくに声をかけてくださったんです。実際にお邪魔すると、旬のハガツオ(カツオの一種)を振る舞ってくださって。都会では「知らない人の家にご飯を食べに行く」なんて少し構えてしまうかもしれませんが、牟岐ではその方の温かさを自然に信じられる、不思議な安心感がありました。
また、以前にゼミの活動で牟岐を訪れた際に知り合った方々と再会できたことも嬉しかったです。一緒にご飯に行ったり、夏だったので阿波おどりにも足を運びました。牟岐町内のアットホームな踊りはもちろん、徳島市内の演舞場の熱気も両方体験できたのは、この時期に滞在していたからこその贅沢でした。
過去の縁が今も続いていて、それがさらに深まっていく。そんな「地続きの繋がり」を感じられた1ヶ月でした。

情報の速さ、そして心の余白

ーー実際に住んで働いてみて、感じたギャップはありましたか?

堀池さん: ギャップというか……「情報の回り方」には驚きました(笑)。でもそれは、お互いをよく見ているからこそ。あとは、防災イベントなどでいろんな方に説明する中で、「この人にはこう言わなきゃ」といった、ある種の人を選ばなければいけないようなものは感じました。でも、それって本来都会でも田舎でも関係なくて、一人ひとりに合わせて話をしていかなきゃいけないっていう、すごく大事な学びだったなと思います。

ーー田舎はインターネットよりも情報が回るのが速い!と冗談交じりに言われたりしますからね。でもそれはすごく本質的で大事な学びだと思います。なぜなら今、人との距離感が近いようで遠くなってしまっている時代に生きていると感じます。
そうした時代の中で、堀池さんは「一人ひとりの個性」を見ようとしているわけですよね。人はみな違うわけですから、そうした対応をキチンとしようとしているわけで、誰でもできることではありません。

森野さん: 情報の速さは私も能登出身なので「あるあるだな」と思いました。大学どこに行くかを話したこともないのにすでに多くの人が知っていると(笑)。また正しい情報が正しいまま伝わるとは限らない難しさはあります(笑)。でも、それって都会の人に比べて、他人に興味を持つ「余白」があるからだと思うんです。

ーー余白ですか。

森野さん: 都会で自分のことに精一杯で生きていたら、他の人の話なんて聞く余裕はないですよね。でも牟岐の人たちは、落ち着いた空間で「最近どうなん?」って話せる時間がある。その余白があるからこそ、人に興味を持つし、お節介も焼いてくれる。自分の周りでは何でもチャレンジできる環境があったし、若い子たちが盛り上げていかなきゃっていう応援の空気もすごく感じました。

固定観念からの脱出

ーーお二人とも、4月からは新社会人として関西で働かれます。牟岐での経験はどう生きそうですか?

森野さん: 4月からは大阪の人材業界に身を置きます。以前の私は、「新卒で入った一社目に長く居続けなければならない」「長く働けるところがいいな」という固定観念にどこか縛られていた部分がありました。
ですが、牟岐で「移住しました」「転職してきました」「まだ迷っています」といった、多様な生き方や働き方を実践している大人たちに出会い、交流する中で、良い意味で肩の力が抜けた気がします。もちろん、まずは目の前の仕事に全力で取り組むことが前提ですが、もし将来、心からやりたいと思える新たな道が見つかったとしても、その時に改めて自分の在り方を考えればいい。牟岐での経験は、そんな風に未来を前向きに捉えるための「プラスの勇気」を私にくれました。

堀池さん: 私は会社に勤めること=働くってことだったんですが、牟岐に来てからは、なにかしらスキルを磨いて様々な視点から活動されている方が多くいることを知り、会社に勤めるだけが答えじゃないんだと感じましたし、地方で働くことも良いななんて思っています。でもだからといって今の私がなにが出来るわけではないので、先ずは会社に勤め、スキルを磨きたいなと思っています。

ーースキルはあるに越したことありませんが、スキルというよりは目的だと思います。地方に来て、牟岐に来て何をするか?何が出来るか?まだまだお若いからそこがまだ見つかっていないんだと思います。これから社会人として頑張ってください!

卒業という大きな節目を前に彼女たちが牟岐で手に入れたのは、履歴書に書き連ねるための実績ではありません。どんな環境に身を置いても自分を見失わず、他者と深く繋がりながらしなやかに生きていくための、揺るぎない「自信」であったように思います。

木村さんに連れて行ってもらった出羽島や地元の方と囲んだハガツオの食卓。そんな、何気ないけれどキラキラとした瞬間の積み重ねが、これから社会という大海原へ漕ぎ出す彼女たちの進む先を、温かく、そして力強く照らしていくことでしょう。

お二人の話を聞きながら、彼女たちがここで手に入れたのは単なる「活動の記録」ではなく、人生のどこかで迷った時にいつでも立ち返ることができる「心の寄る辺」なのだと感じました。効率やスピードが重視される都会での生活が始まっても、牟岐で知った「一次情報」の重みと、人の体温が乗った言葉の力は、彼女たちを支える確かな背骨になるはずです。

またいつか、彼女たちが「ただいま」とこの町に帰ってくる日を、牟岐は変わらぬ「余白」を持って待ち続けているはずです。その時、ひと回りもふた回りも大きくなった彼女たちと、またこの場所で新しい「一次情報」を分かち合える日が、今から楽しみでなりません。

2025年11月 徳島県牟岐町 ターンファームにて

牟岐の海に導かれ、バレエ一筋から海の案内人へ :地域おこし協力隊 – 宮城 京華

徳島県海部郡牟岐町の青く澄んだ海を舞台に、新しい挑戦を始めた若い女性がいる。宮城京華さん(みやぎきょうか)、27歳。彼女はクラシックバレエ一筋で育ち、大学で世界の広さを知った。旅行会社で働いたのち、現在は牟岐町の地域おこし協力隊としてマリンレジャーの振興や海洋保護の活動に取り組んでいる。その歩みは、自然と導かれるように今へとつながっているように感じた。

15年のバレエが教えてくれたもの

——まずは自己紹介をお願いできますか?お名前や生まれは?

宮城京華(みやぎきょうか)、27歳です。徳島県の北島町で生まれ、大学卒業まで育ちました。

——大学まではどんな生活をしていらっしゃったのでしょうか?

小中高までは北島町内の学校に通っていて、幼稚園から20歳ぐらいまでずっとクラシックバレエを続けていました。

——クラシックバレエを?そんなに長く?すごいですね!どれくらいの頻度でやっていたのでしょうか?

はい、もう踊るのが大好きで。中学・高校の6年間は週6日で通っていました。学校が終わったらすぐにバレエスクールに通うといった感じの生活をずっとおくっていました。

——週6日ですか。それはもうバレエが生活のすべてだったんですね。ではプロバレリーナを目指していたのでしょうか?

はい。でも高校卒業したあたりでプロにはなれないなと感じて断念をしまして……それで四国大学に行くことにしたのですが、そこからもう2年間ぐらいはちょこちょこっと趣味でスクールに通ってっていう感じでした。

——へぇすごい。バレエの世界って凄そうですよね。映画やドラマの題材として扱われているのを観ると。表と裏のコントラストがすごいというか。

いやもうほんと、プロとして食べていくには一握りなのですごい世界なんだと思います。私はプロの世界に入ってないので実際どんな感じなのかは詳しくわからないのですが、私の通っていたスタジオは礼儀とか人間関係を丁寧に教えてくださる先生で、バチバチした感じはなくて、本当にみんなで切磋琢磨していってました。

——なるほど、バレエ一筋の青春時代だったんですね。

世界への扉をひらいた大学時代

——その後は四国大学に進学されたということですが、四国大学を選んだ理由などはあるのでしょうか?

本当は東京に出たいという夢が高校の頃からありまして。それで東京の大学に進学を目指してたんですけど、それは叶わなくて。それで地元の大学に行こうとなり、四国大学を選びました。

——叶わなかったというのは?

希望としてはプロのバレエ団に入るというのと、あと東京の大学でバレエ科があるところに行くという2択だったんですけど、プロのバレエ団に入れる程の実績はなかったので、断念しました。東京の大学の方もいくつか見には行ったんですけど、自分が納得するような大学が見つからなくて……で、もう本当に路頭に迷ってて高校3年生の時に。うーん……もうどうしようか……でもやっぱり大学は行こうかってなって思い、四国大学に行きました。

——四国大学では何を専攻したのでしょうか?

国際文化学科という科に行きました。そこで英語の先生の教員免許を取るコースにも行き、教員免許も取得しました。

——では、四国大学に入り、方向転換していったと。つまりバレエ一筋だった人生から違う道を模索しはじめていった先に教員があったと。

実は教員に興味があったわけではありませんでした。でも在学中に人生で初めて海外に行くという経験をしたんですが、バレエ一筋でずっと生きてきてたので結構視野が狭かったんですが、そこで一気に世界が広がって。

——海外に行くと世界が変わりますよね。その時、どの国にいったのでしょうか?

初めて行ったのはどこだったかな…あ、アメリカのワシントンD.C.に1週間、大学のプログラムで行って。もう本当に異文化でこんな世界があるんだ!みたいな。もっと世界の事を知りたいなっていう気持ちがそこで広がりました。

——他にもいろんな国に行かれたのでしょうか?

そこからは旅行でグアム行ったりシンガポール行ったりとかはあったんですけど……あと、2ヶ月間だったかな?交換プログラムでミシガン州にいきました、アメリカの。そこで現地のイマージョン・スクールで、日本語を教える先生を経験をして。その時に現地で日本語を教えるのと、徳島の文化を広めるというので、お遍路文化の徳島県内にある24のお寺の紹介をちょっとしたりとか。あと阿波踊りを子供たちに見てもらったりとか。そういうイベントとかも企画してやりました。

——では、バレエは諦めてなんとなく四国大学に行ってみたら、思いのほか楽しかったと。

思いのほかめちゃくちゃ楽しかったです。本当にすごい良い経験になりました。きっと大学に行かなくて国際文化学科を選んでいなかったら、この海外文化に興味を持つということもなかったなと思うので。

——その後は就職活動をするのでしょうか?

はい。旅行会社への就職を目指しまして、新卒で旅行会社に入社をしました。自分自身もやっぱりもっと色々な文化を知りたい、海外を見たいっていうのもありましたので。東京に本社がある旅行会社に入社して、大学卒業後は2年間東京で働きました。

コロナと共に始まった社会人生活

——就職を機に上京したんですね。

はい。でも入社したのが2020年4月でした。なので入社した途端にコロナ禍で休業になってしまったんです。海外団体旅行はすべてキャンセルになり、毎日がキャンセル処理の連続でした。一年ぐらいはそんな事務仕事をしていました。

——世界が大変な時期でしたからね。2021年になって少し落ち着いてきたころはそれらしい仕事はできましたか?

翌年は「Go To トラベル」という観光庁がはじめた観光業を支援するため政策がありましたが、それの事務局に出向していましたので、東京本社の仕事という仕事はあまり経験せずに時間が過ぎていってしまって……それで徳島にも支店があったので異動願を出して徳島に帰ってきたんです。

——徳島に帰ってきたかった理由ってなにかあるのでしょうか?

理由は若干彷徨っている感じになるんですけど(笑)、旅行会社に入ったけど自分が思い描いていた仕事ができてない。そこでもう1回自分が海外に出て視野を広げたいなという思いが出てきて、そこでワーキングホリデーに行ってみたいなと思い始めて。それで資金を貯めようと思い、帰ってきました。

——では、コロナがもしなかったり、もしくは活動が順調だったらそのまま東京にいた可能性が高かったいうか、宮城さんはそもそもそちらを望んでたんですね。

そうですね。東京でバリバリ働きたいというのがあったので、きっとコロナがなかったらそのまま東京にいたかもしれないです。

——そういった思いで帰ってきてからの活動はどのような感じだったのでしょうか?

帰って来てからすぐの試察研修で、観光局が主催をしている試察ツアーがありまして、そこに私が旅行会社の仕事として参加をしました。そこで牟岐町で協力隊をしていた石橋くんに出会いまして。2人とも海が好きだったので意気投合して、そこから交際がスタートしました。

——なるほど、交際をきっかけに牟岐に来ることが増えたわけですね。徳島出身なので牟岐町の存在は知っていたと思いますが、来たことなどはあったのでしょうか?

ほとんど来たことなかったです。小学校5年生に1回、宿泊学習で来たきりでした。でも徳島支店に異動してきてから、牟岐町に来る仕事が私の担当になりまして。なので試察ツアー以外でも牟岐に仕事でちょこちょこ来てて。そこで石橋くんとも会ったりしていたというのもあります。

海が導いた牟岐町との出会い

——海が好きだというのは幼少からのお話には出てきていませんが、実は海が好きだったと。

はい、好きでした。小学生の時に年に1回イルカと触れ合うような遊びに家族が連れて行ってくれてました。なので、海とかその海の生き物がすごい好きだったんです。中学校の修学旅行は沖縄で、そこで人生で初めての体験ダイビングをしたんです。そこでワッと海の見方が変わって、こんなに別世界なんだって感じました。

なので社会人になったらライセンス取ってみようかなって、中学生のときに思って。中学校のときに行ったショップにライセンスの金額表が書いてあったんですけど、結構金額が高くて……これは社会人にならないとなかなかできない遊びだなっていうのをその時思って。じゃあ社会人になった時の夢として1つ持っておこうと思ったんです。

——では、社会人になったら仕事をしながら、趣味としてダイビングをしていきたいと考えていたと。

コロナ禍のときは友達と旅行するなどもダメな時期でしたので、一人旅をスタートしてその旅先として沖縄を選んで、そこでライセンスを取ってっていうのをやってました。なので東京にいるコロナ禍のときにダイビングを趣味としてスタートさせて、こっちに帰って来るまでの2年間で沖縄に遊びに行ったりしていました。

——そこで海のアクティビティやダイビング関係を仕事にするのもありかな?みたいことは、どこかで感じたりしましたか?

ちょこっと思ったりはしていました。一人旅で沖縄に行った時に今の私のダイビングの師匠に出会いまして。その方にも本当にお世話になって、ライセンスをどんどんレベルアップさせていって、プロ資格まで取得できたので、これを将来的に旅行と掛け合わせたような形で、例えばたダイビングツアーみたいな形でできるようになったら最高なのかなっていうのは思っていました。

——でも旅行会社はやめることになると。

修学旅行とかの団体のお世話をしてる時に、添乗員をしていたのでコロナの感染があったりして、「あ、これはちょっと危ないな……」と感じまして。今のこの時期に旅行会社じゃなくてもいいのかなっていうのをちょっと思ってしまって。それで転職をしました。

——転職したんですね。

フルリモート、パソコン1台でできる人材系の会社に入りました。東京に本社があり、徳島で仕事ができたのでそれをしていました。パソコン1台で仕事ができるようになったので、牟岐にも来たり、あとダイビングのプロになるためのライセンス講習で必要な時は沖縄に飛んだりしながら生活をしていました。

——ではリモートの仕事を選んだというのも、そうしたライセンス取得をする理由が大きかったんですね。

まさにそのためにリモートできる仕事を選びました。今はインストラクターの資格の一番初期の段階のモノを取得しました。ここからまだ後ろにかなり資格があるんですが、今私が持っている資格でショップとか、お客様のガイドはできる資格なので。とにかくこの資格を取りたかったんです。

遊びから暮らしへ、牟岐の海が導いた移住

——その後、人材系の会社をやめて、地域おこし協力隊として牟岐町に移住することになるわけですね。

石橋くんと交際していく中で、ずっと牟岐町に住みたいなって思うようになりまして。この町の海が大好きだし、牟岐の人たちもすごくあたたかいので、やっぱりこれから先もこの海で遊びながら生きていきたいねっていう話を二人でしていて。

では現実的に、この町で自分たちがどんな仕事をしていったら良いかっていうのを考えた時に、今はまだ難しいんですけど将来的にダイビングショップとかゲストハウスとかをできたらいいねって話をしていまして。その夢を叶えるためにはどうしたらいいかな?じゃあ地域おこし協力隊になり、3年間でこの町の人たちと関わりながら、人脈を広げたりとか、あとマリンレジャーを盛り上げていくような活動をしたいなと思い、地域おこし協力隊になりました。

——移住する前…つまり旅行会社に勤めている時も、牟岐町でマリンレジャーはされていたのでしょうか?

はい。遊びでですが海に潜っていました。

——その時の体験がすごく魅力的に感じ、これから先も牟岐町に関わっていきたいという思いが芽生えたということでしょうか?

木村さんとか石橋くんと遊びに行き、海に潜り、海に行くたびにこんなに生命豊かな生き物たちがいっぱいいる海って、なかなかないなと感じまして。沖縄の海もすごく綺麗なんですけど、またそれとは雰囲気がガラッと違って楽しみ方が全然違うんです。牟岐の海は。魚の種類とか数はこっちの方がいいんじゃないかなと思うぐらいなんです。

——へえ、そうなんですね。意外ですね。沖縄の方が豊かそうだと勝手にイメージしてしまいますが。

マスク、フィン、シュノーケルをつけてのただの素潜りですけど、見応え抜群で魚の大群とかもいるんですよ。

——例えば場所だとどのあたりの海でしょうか?

よく連れて行ってもらったのが牟岐大島です。木村さんの小さい船で海が良い時に連れて行ってもらって。で、2時間ぐらい遊んで写真とか撮って帰ってくるみたいな遊びをしていました。

——なるほど、牟岐大島ですか。あそこはスケール感がすごく、入江はとてもきれいですよね。もっと近場で自分の足でアクセスできるような場所では遊んではいないですか?

そうですね、今でこそ松ヶ磯(モラスコむぎの目の前の浜)で泳いだりするようになりましたが、あんまり遊んでいないかもしれないです。

協力隊として“海をひらく”日々

——現在は地域おこし協力隊として活動しているわけですが、具体的に活動はどういったことをされているのでしょうか?

主に2つの柱がありまして、1つはマリンレジャーの復興です。マリンレジャーを盛り上げていこうっていうことで、一先ず今年の7、8、9月は1回ずつシュノーケリングのイベントを行っています。子どもたちとか親子向けに牟岐の海を知ってもらう、実際に牟岐大島に行き、こうやって泳いでみよう!などといった具合に開催しています。この魚がいるよとか漁師さんたちを呼んで、今の海と昔の海の違いなどをお話ししてもらったりといった事をしています。

あと漁師さんたちと連携して盛り上げようっていうので、今年の7月に漁師さんにシュノーケリングガイドのプロ資格を取っていただいて。それでガイドとして今後一緒に活動をしていけたらと考えています。
そのガイドのプロ資格を取るのに救急救命の講習を1日と、あと私がシュノーケリングガイドの講習を2日間実施して。その3日間受けていただいたらプロの資格が取れるような仕組みなんです。

——へえ。希望した漁師さんが取得すると。

そうです。私たちがお声掛けをして。それで興味を持ってくれた漁師さんに取っていただく流れです。普段は結構漁で忙しいという話を聞いていたんですが、夏はあんまり漁が盛んじゃないということだったので。将来的に夏の漁師さんたちの1つの新たな収入源になってくれたらすごく素敵だなと思いまして。

漁師さんたちは本当にこの海の事を知り尽くしてるので、もうこれ以上に心強いガイドさんはいないかなと思っていまして。是非多くの漁師さんと連携できたら嬉しいなと考えています。

あともう一つ活動していることがあります。海洋保護の視点から活動をおこなっていまして、海洋プラスチックは世界的に問題になってると思います。牟岐にもそうしたゴミがたくさん漂着してきてるので、それをビーチクリーンで拾い、洗い、色別に分けて、ちっちゃく粉砕して乾燥して、すると小さいカラフルなパーツができるんですよ。それを使って子供たちにキーホルダー作ろうとか、あとコースター作ってみようといった活動をおこなっているんです。

▲黒潮の影響で、牟岐の浜には漂着ゴミが流れ着く。大潮や台風の後なら尚更だ。

▲彼女は牟岐に移住してから漂着ゴミを拾うことがライフワークとなった。

▲拾ったゴミを色分けして選別し、ミキサーにかけて細かくし、再活用できるようにしている。

▲お陰で事務所はすごいことになっていた(笑)

▲イベント時にはこうしたコースターなどを参加者と制作している。

ゴミに新たな価値を与えるアップサイクルは今全国的に広がってる活動なので、これを牟岐でもぜひ取り入れたいなと思いスタートをしました。

あと、小学校4年生の総合時間の授業で取り入れてくださって、ビーチクリーンに一緒に行って拾ったゴミで本のしおりを作ってっていうのをやりました。その中で牟岐の海はこういう魅力があるよとか、今こういう問題が起こってるよなどと、世界の海洋ゴミ問題の話をしながら、みんなで海について考えて、実際に体を動かして感じて体験するプログラムにしてます。

——つまり将来的にはマリンレジャーが漁師さんたちと良い形でつながり、結果それが牟岐の産業になればいいなという思いで、地域おこし協力隊として活動しているということですね。

はい、まさに。例えばマリンレジャーの会社だけが儲かる仕組みではなく、牟岐町全体がマリンレジャーで潤うような。町ぐるみで連携してできるのが最高かななんてことを考えています。

——今、協力隊になられて何ヶ月ほどでしょうか?

2025年4月からなので、約4ヶ月です。

——主に活動しているフィールドは牟岐大島でしょうか?

今年はイベントをやっているのは牟岐大島です。ですけど来年は目の前のモラスコむぎの目の前とか、あと古牟岐の港とかを会場にして色々イベントをやっていきたいなとは考えています。

——協力隊の任期が終える3年後にはどうなっていたい、もしくは目標を掲げていたりするのでしょうか?

地域おこし協力隊の任期が終わる3年後には、牟岐でダイビング事業をスタートできれば嬉しいという野望はあります。
私の場合、協力隊になるときに自分から役場へ企画書を提出して立候補した形だったので、その時に漁協役員の漁師さんたちにも3年間の活動内容や将来の目標をお話ししました。「報連相をしっかりして出来ることからやってみ」と、お声がけをくれる漁師さんもいました。

ただ、協力隊になったからといって、ダイビング事業ができるという訳ではありません。
マリンアクティビティを地域に受け入れていただくためには、安全に楽しめる体制を整えること、漁業と海洋保護・マリンレジャーの両立を図ること、そしてルールや規定をしっかり整えていくことが大切だと思います。

まずは何より、地域のみなさんとの信頼関係を築くことを大事にしながら、できることから一歩ずつ取り組んでいきます。

——海での活動となると漁師さんたちとの兼ね合いもあると思いますし、時間がかかることでもあると感じます。簡単ではないことだと感じますが、牟岐町の大きな資源は海だと僕も思っています。今後の活動に期待しています!

かつて牟岐町にはダイビングショップが存在し、県内外から多くの人を集めていた時期があった。しかし、様々な事情からその灯は消え、町の海と人をつなぐ拠点は途絶えた。だからといって海の魅力が失われたわけではない。豊かな魚影や地元漁師の知恵、透明度の高い水中景観は今も健在である。

ただし、ダイビング事業は資源管理や漁業との調整が欠かせず、一足飛びに進められるものではない。だからこそ宮城さんは、一人の挑戦としてではなく「町ぐるみで未来につながる仕組みづくり」として動いている。シュノーケリング体験や海洋教育を通じて、町の子どもたちや観光客に「海と関わる入り口」を広げつつ、漁師や教育機関と連携しながら信頼を積み重ねている。

まちづくりに大切なのは、町全体で資源を守り、その価値を分かち合うことだ。過去の記憶を踏まえながら、「次の世代につながる形」をみんなで育てていくことが、これからの挑戦になる。その挑戦の先に、宮城さんがどんな未来を描いていくのか。町の人々と共に紡がれていく歩みに期待したい。

「ただ、ここが心地よいから」— 私が牟岐町とつながる理由 :鳥取大学 有賀春桜美(あるが すおみ)

今回お話を伺ったのは、鳥取大学農学部に通う有賀春桜美さん(あるが すおみ)23歳。現在は鳥取をベースとしている彼女ですが、幼少期から各地を転々として育ってきました。そんな彼女は今、関係人口として牟岐町に関わっています。どのようにして牟岐と出会い、なぜこの町とのつながりを続けているのでしょうか。その背景についてお話を聞いてみました。

幼少期から続いた移住生活と徳島との出会い

——春桜美さんはどちらのご出身ですか?

長野県出身で、子どもの頃から転々としていて出身という感覚があまりなく、生まれは徳島ではないんですが阿南市には長く住んでいました。小学校に行くために徳島県に移住してきたという背景があります。

——小学校に行くためにですか?なぜ徳島の小学校に?

少し複雑な家庭環境だったんですが、幼稚園の時に両親が離婚していて。母は『NPO法人自然スクールトエック』というフリースクールに私を通わせたかったみたいで、そこに行くために徳島県に移住を決めた感じですね。

NPO法人自然スクールトエックとは?

NPO法人自然スクールトエック
徳島県阿南市にあるフリースクールで、子どもたちが自分の興味や関心に基づいて学ぶことができる教育施設。従来の学校教育とは異なり、自由な学びのスタイルを提供しているのが特徴。トエックは全国的に数少ないフリースクールの一つであり、その特性から阿南市にはこうした自由な教育を求める家庭が移住する傾向がある。

——春桜美さんの意向というよりはお母さんが通わせたかったと。

はい、そうですね。山梨の母の知人が先に移住していて、その話を聞いて行こうと思ったのかな。それまでは長野、埼玉、石川、山梨と1年ごとに転校していました。最初は父の転勤が理由で、そこから離婚をきっかけに阿南へ定住することになりました。小学校4年生か5年生くらいのときに阿南に引っ越して、それから高校卒業まで過ごしました。あ、阿南の前は同じ徳島県の神山町に2年間住んでいて、その時すでにトエックには通っていました。毎日車で1時間半かけて通っていまして、遠いという理由で阿南に引っ越しました。

——牟岐町に関わるようになったきっかけを教えてください。

高校生のときにサマースクールに参加したのが最初のきっかけですね。それまで牟岐町には何度か訪れたことがありましたけど、ただの遊びやイベントへの参加という感じで深く関わることはありませんでした。でも、このサマースクールが、今の関係につながる最初の大きなきっかけになったと思います。

サマースクールとは?

HLAB サマースクール
サマースクールは、夏休み期間中に開催される短期集中型の教育プログラム。HLABが主催するサマースクールは、国内外の大学生がメンターとして参加し、高校生に向けた英語での授業やワークショップ、異文化交流を提供することを特徴としている。牟岐町で行われたサマースクールもその一環で、HLABの理念を受け継ぎながら、地域の大学生らが主体となって学びの場を創出してきた。

——では、牟岐町自体はもともと馴染み…というか知ってはいたんですね。

そうですね、地名も場所も知っていました。ただ、それ以上でも以下でもなく、特別な意味を持っていたわけではなかったです。でもサマースクールに参加したことで一気に距離が縮まりました。

サマースクールとの出会いと牟岐町への第一歩

——サマースクールに参加した理由はなんだったのでしょうか?

多分、当時すごい日常に飽きていて…とにかく外に出たかったんだろうと思っていて、高校生活が退屈だったというのが大きな理由です。小学生の時から自分は割と活動的っていうか、色んな大人に囲まれて育ってたから、閉鎖的な環境がすごく合ってないなって思ってて。高校も阿南の高校に通っていて、何か違う刺激を期待して行ったけど、そこが満たされるわけでもなく…辛いなって思ってた時に学校で黒板の前に貼ってあったサマースクールの説明会のチラシを見て、説明会に参加して、そこで観たショートムービーで「これは行くしかないな…」て思ったのはすごい覚えています。

——何がピンと来たのでしょう?

一番印象に残ったのは、英語が普通に話されている環境です。徳島ではそんな環境に触れることがほとんどなかったので、すごく新鮮に感じました。学校の英語の先生ですらそこまで流暢な英語を話せるわけじゃないので、それだけでもワクワクしましたし、少なくともここに行けば本物の英語に触れられる環境があるんだなって思ってたし、あとは大学生がすごく輝いて見えて、純粋に楽しそうだなって思ったから。そういう純粋にワクワクすることってあんまり学校生活の中でなかったから、チャンスがあるなら参加してみようと思って応募しました。

当時徳島県内の高校生は県内生割引があって、他の人は6万円払ったのが私は2万円で済んだんです。2万円ならいけるなと思い、お母さんに何も言わず応募しました(笑)。

——中学、高校の時に部活などの活動はやっていなかったのでしょうか?

中学、高校の時、部活は結構やっている方でしたが、なにか物足りない感じがありました。話がめちゃくちゃ合う友達がずっといない感覚があって。高校になったら変わるかなと思いましたが、進学しても大きくは変わりませんでした。

同級生の会話はゲームや漫画、恋バナが中心で、私はどちらかというと本を読んだり、誰かとじっくり話すことのほうが好きだったので、なかなか馴染めなかったんです。休みの日で遊ぶのも、みんなでショッピングモールに行ったり、プリクラを撮ったりするのが当たり前みたいな感じで私にはそれがすごくつまらなく思えてしまって。もちろん友達と一緒にいるのは楽しいんですけど、私は本質的にはそこに興味がない人間だったので、やはり何か違うものを求めていました。外で体を動かして遊べる友達や、自分の思想や哲学的なことを話せる存在、のようなものです。

今では学校外で活動をして、やりたいことを広げていく人が増えたとは思いますが、当時はそういう人も全然いなかったので、やりたくてもそれに慣れている大人がいなくて、どこにも出られないような環境でした。

——孤独感を感じていたと。

そうですね…孤独感は感じていました。

——そんな中でサマースクールを見て、ビビッときたと。実際に参加してみてどうでしたか?

参加してみて刺激に溢れていました。特に海外の大学生が専門分野を英語で授業するセミナーは、オールイングリッシュなのでほとんど分からないのですが、ついていかないといけませんでした。それに徳島県内で同じような志を持っている高校生と出会えて、1週間話をしたりもしました。出会ったことのない世界に出会ってすごく新鮮でした。

でも自分の人生が変わったというよりは、広がった感覚が強いです。サマースクールの参加者のみんなはよく「180度変わった」と言うのですが、私はそれよりも前にそういった経験をしていたので、あまりそういう感覚ではありませんでした。より広がって深まったと思っています。

——その前にしていた経験とは?

その前は中学3年生の時、英語弁論大会の県大会で3位になり、全国大会に出場しました。各県から3人くらい集まり、東京で合宿をしながらの大会でした。そこで東京の同い年の子たちに会い、カルチャーショックを受けました。

そもそも大会なので、評価というものがあり、自分は予選で敗退するようなレベルでした。でも合宿の中で、決勝に行く子の応援をしたり、一位を取った子が隣にいて、周りの子たちと「おめでとう」って言い合ったりして。普段徳島の中学校で過ごしていたら出会わないような感覚を、その大会で得ました。それもあったから、より高校で物足りなさを感じたのかもしれないです。

——ではサマースクールは、自分が思っていたほどの経験でもなかった感覚…ということでしょうか?

めちゃくちゃ良かった部分と、ある程度想定内だった部分があったので、感動は自分にとってそこまで大きくありませんでした。でも、1つだけすごく大きかったことがあって。それはサマースクールが終わってからすごく笑うようになりました。それまで感情を前に出さない人間でしたが、そこで安心したのか、誰かが見てくれている感覚を得て、愛という感情を知ったのがサマースクールでした。

人を大切にするとか、誰かを想うとか、誰かに感謝するみたいな感覚を初めて得ました。人生で初めて人前で泣いたのもそのタイミングです。

——へえ、どんなタイミングで泣けたのでしょうか?

確か閉会式でみんな泣いていましたが、そういう状況でも泣いてこなかった自分だったのに涙が出てきた時、めっちゃびっくりしました。

——その後、どうして牟岐町に関わり続けることになったんですか?

2021年にHLABのサマースクールの運営委員として関わることになったんです。今は徳島でのサマースクールがなくなってしまったんですが、牟岐町で何か新しいことをしようという話があって。そのとき、運営を担う大学生を探していて、私に声がかかりました。スタディツアーという企画をして、大学生や高校生と交流を深める機会を作りました。それが、今の関係人口としての関わりになったと思います。

——春桜美さんとしても関わりたいなと思ったんですね。

自分としても徳島で何かしたいってずっと思ってたから。

——あれ?そう言えば、そもそも春桜美さんは若干住所不定の生活を送っていますよね(笑)。

その間もそもそもどこに住んでるのかは割と不定でした。その時は本当に絶賛旅の途中だったから、話をもらった時は北海道にいたかもしれない。あれ違うな(笑)。覚えていません。

——今はどこに住んでいるんでしょうか?

今は鳥取県で普通に大学生してます。

関係人口としての今と、これから

——今はどれぐらいの頻度で牟岐町に訪れているのでしょうか?

年に4回くらいですね。長期休みのときは必ず来るし、3連休とかでも来ることがあります。何かイベントで呼ばれて来るとか。でも自発的にナチュナルに来てる時も多いですね。

——何かそうしたイベントの時に呼ばれたとかであれば、来る理由は分かりますが、自発的に来るっていうのは何か相当理由があるというか、単純に牟岐が好きなんですね。

そうですね。でもあんまり予定なくて来る事なくて。今回は友人が牟岐に来るから一番良いタイミングが今だったっていう感じだったので合わせて来たっていう。だから誰か来るとか、1回車返しに来るっていう理由で来た事はあるけど。大体何かに合わせて来ている気がします。

——そうして帰って来れるっていうは、やはり帰って来やすい環境があるいうのがやっぱりありますよね。

その環境は大きいと思います。

ターンファームという基地のような場所や、学生が寝泊まりできるシェアハウスなどもある

でも牟岐に来た時に一番最初に住んでいたのが目の前に牟岐川がある水防倉庫というところで。その時は車はないし、周りにそんな人もいないから、すごく静かな場所だなと思って。それはそれで好きでした。

——これから牟岐で何かしたいことなどはありますか?

そうですね。全然自分自身の将来のことがわかってないから、多分毎年言うこと変わると思うんですが(笑)、何か継続的に牟岐には関わっていきたいなと思っていて。例えば牟岐に来たいっていう人がいたら一緒に来るだろうなと思うし、その時イベントがあれば手伝ったりとか…それぐらいしかいまは思い浮かびません。

——牟岐町に来る若者たちと一緒になって牟岐を楽しんだり、話しをしたりってことですかね。大学卒業後の進路は決まっているのでしょうか?

ある程度決まっていて卒業後は一度東京で就職する予定です。でも東京に長くいるつもりはなくて、最終的には徳島に戻るんじゃないかなと思っていますし、戻ってきたいなと思っています。人とのつながりがあるので、何かしらの形で関わり続けるとは思います。

将来的には山の中に住みたくて、古い家をなんとか立て直して暮らすようなことをしたいなと思っています。牟岐をはじめ、徳島県南は環境として性に合うなと思っています。私は地域創生とかそういった大きな目的があって関わっているわけではなくて、気づいたらここにいて、気づいたらまた戻ってきている。そういう感覚のほうが近いかもしれません。誰かに求められたからではなく、ただここが心地よくて、自然と足が向くんです。だから、これからも肩肘張らずに流れのまま関わっていくんじゃないかなって思います。

 

有賀春桜美さんの話を聞いていると、彼女の持つ感受性の高さと、環境に対する鋭い洞察力が強く印象に残りました。彼女は「移動すること」によって自分を見つける人生を送ってきましたが、その中でも牟岐町という場所には特別な吸引力を感じているように思えました。牟岐は彼女にとって、目的を持って訪れる場所ではなく、自然と足が向く場所。その理由を深く掘り下げると、「人との距離感」と「閉鎖されすぎない空間」に心地よさを感じているのではないかと思いました。

彼女がサマースクールで経験した「英語が飛び交う場」「価値観の異なる人との出会い」は、それまでの閉じた環境では得られなかった刺激でした。一方で、それは単に新しい世界を知るということ以上に、自分の内面を開くきっかけにもなったのではないでしょうか。サマースクール後に「笑うようになった」と語る彼女の言葉は、その変化を端的に物語っています。

また、「人前で初めて泣いた」というエピソードはとても象徴的でした。それは単なる感動ではなく、「自分がここにいていいんだ」という安堵の感情だったのではないかとも感じます。それまで理性的に物事を受け止め、内面にしまい込んできた感情が、牟岐という環境の中で自然と表に出た。そういう体験は、どんなに言葉を尽くしても説明しきれない「感覚的な何か」だったのでしょう。

地域創生という大義名分ではなく、ただ「ここにいるのが自然だから」と関わり続ける彼女のスタンスは、牟岐の魅力そのものかもしれません。目的がなくても、肩書きがなくても、何かが満たされる。そんな場所があるということを、彼女の話から改めて感じさせられました。

先祖と家族が大切にしたものを守りたい——地域創生を考える若者の視点【NPO法人ひとつむぎ】中山知華さん

今回お話を伺ったのは中山知華さん(20歳)。牟岐町生まれ牟岐町育ち、現在は徳島で大学生活を送っています。『NPO法人ひとつむぎ』が立ち上がった初期から運営側ではなく参加者として参加をし、現在は運営側として活動をしています。こどもの頃から牟岐を想い、積極的に地域活動をしてきた非常に稀有な存在といえるのかもしれません。そんな彼女に牟岐への想いを聞いてみました。

ひとつむぎとの出会いと関わり

ー 知華さんのご出身はどちらでしょうか?

生まれは牟岐町です。高校は阿南市の富岡西高に行っていました。

ー 高校で阿南市に行っていたのはなにか理由があったのでしょうか?

剣道が強い高校だったのでそこを選びました。兄も同じ高校で楽しそうやなぁと感じたのでそれもあります。

ー へぇ、兄弟で同じ高校に通っていたんですね。とても仲が良いんですね。高校進学の際に、県外へ行くという選択肢は考えなかったのでしょうか?

剣道を続けたかったので、特に県外に出ることは考えませんでした。

ー 剣道は武士道の真髄を究める道とも言えますが、そうした学びが魅力のひとつだったのでしょうか?

はい。小学校の時に「我以外皆師なり」という剣道において重要な教えを先生から教わって、中学校の時に作文を書いて全校生徒の前で読んだ事があります。私は「自分は頑張っている」という、どこか傲慢な部分があったりしたので、この言葉はそれを改めるキッカケを作ってくれましたし、挨拶をするなど多くの礼儀を学んだ事は今にも活きているなと感じています。

ー 牟岐町には『NPO法人ひとつむぎ』という、教育やまちづくりに携わる大学生を中心とした団体がいます。そことの関わりが知華さんは親密だとお聞きしていますが、ひとつむぎとはいつ頃から関わりがあるのでしょうか?

私が小学生の時だったかな?それぐらいの時がひとつむぎが発足をしたタイミングで、本格的に活動に参加をしはじめたのは中学生だったように思います。

ー 運営側ではなく参加側としてですね。そもそも、なぜひとつむぎに参加しようと思ったのでしょうか?

なんとなくといった感覚的なものですが、楽しそうだったんです。

ー へぇ。どのあたりが楽しそうと感じたのでしょうか?活動の内容が?

牟岐から新しい活動がはじまる!といった感覚あったので、それが良いなと思ったんです。楽しいことがこれからはじまる!みたいな。内容はというよりそちらの感覚的な方が強かったように思います。

ー 実際に参加してみていかがでしたか?

アイスブレイクとかをゲーム感覚でできて、とても楽しかった思い出があります。その時、何のために大学生が牟岐に来ているのか?とか、そうした事は全く考えていませんでしたが、大学生という存在が牟岐町にはほとんどいなかったので、ちょっと年上のお兄さんお姉さんたちと遊べるだけで楽しかった記憶があります。

ー そうした”楽しかった経験”から中学生、高校生の時にもひとつむぎに参加していくことになるのでしょうか?

はい、そうですね。最初はただ楽しいから参加していましたが、関わるうちに「町を盛り上げる活動」に少しずつ興味を持つようになっていきました。

中学生の時に参加者として参加した時の一枚

交流授業で訪れた宮崎

ー 高校を卒業して大学に行くことになってから参加側ではなく運営側にまわることになるわけですが、ひとつむぎではどのような活動をしていたのでしょうか?

コロナ禍で出来なかったことなどが沢山あるのですが、一番印象に残っているのが2022年の大学一年の時に宮崎県の西都市のとある中学校に交流授業をしに行ったことです。それがとても楽しかったんです。

ー へぇ、どのあたりが楽しかったのでしょうか?

中学生たちがとにかく元気で驚きました。総合学習に力を入れている学校だったので、みんな発表のときにしっかりと自分の意見を伝えられるんです。校長先生も「子どもたちが自発的であること」を大切にしている方で、その姿勢が学校全体に根付いているのを感じました。朝には一緒に挨拶運動もしたんですよ。

ー 校門に立って「おはようございます!」とか「さよーなら」とかですかね?

そうです。帰る日の朝も、もう一度校門に行って挨拶しました。

ー 子どもたちとコミュニケーションを取る事が楽しかったんですね。

はい。それに、その中学校は規模的に牟岐町の学校と似ていたんですが、子どもたちの活発さがまるで違っていて、その違いがとても印象的でした。

ー 教育の違いを感じたのですね。

その時コロナ禍でしたのでとても難しい時期だったと思いますが、訪れた中学校は地域との関係を絶やさずにオープンにしていたのが良かったようです。あと宮崎という土地も良いなと思って。登って登っても平野で。そんな場所に行ったことなかったので。

ー 四国と九州の景色の違いですね。僕も平野の景色はとても好きなのでよくわかります。

宮崎に訪れた時の一枚

大学での学びよりも地域創生

ー 大学は四国大学に行かれていると思いますが、そうした理由や経緯などはあるのでしょうか?

もともと県外に出るイメージがあまりなかったんです。本当は徳島大学の総合科学部に行きたかったんですが、残念ながら合格できず…。ひとつむぎで関わった大学生の多くが総合科学部の出身だったので、憧れがありましたね。結果として四国大学の経済情報学部・メディア学科に進学しました。

ー メディア学科はいかがですか?

カメラが好きで専攻しましたが一年生の時は座学ばかりで(苦笑)。二年生になったらようやくカメラを触れるようになり面白くなってきまして、今は映像とWebデザインを学んでいます。映像制作で15秒のCMを作ろうと思っていざ撮影してみたんですが、思ったより撮影に時間がかかって。撮影する前は絵コンテって必要ある?とか思っていたんですが、やっぱり絵コンテって重要なんだなーと(笑)。

一年生の頃の座学の内容が、今になって理解できるようになってきましたか?

いえ…実はまだあまり実感できていないです(汗)。

ー え?そうなんですか(笑)。現在大学には通っているけれど、大学で学ぶことにそこまで興味はないように感じます。知華さんとしてはひとつむぎの活動の方が興味があるのでしょうか?

ひとつむぎの活動の方が全然興味があります。

ー それは自分の故郷である牟岐町をベースに活動をしているからでしょうか?

それもありますが、大学で映像編集をしていると、作業に時間がかかる上に基本的に一人で進めるので、孤独を感じることが多いんです。でも、ひとつむぎの活動で子どもたちと関わっていると、そういう孤独を感じることがなく、純粋に楽しいと思えるんです。

ー こどもが好きなんですね。

はい、こどもが好きなんです。

ー では教育にも興味があると。

教育には興味がありますが、より広い意味でいうと「地域創生」に関心があります。地域創生を考えたときに、教育は欠かせない要素のひとつだと思うんです。ただ、教育って成果がすぐに目に見えるものではないので、どうしても投資しにくい分野だと思うんですが、そこにしっかり取り組んできたのがひとつむぎや牟岐町なんですよね。だから、教育というよりも「地域創生の手段としての教育」に関心があります。

ー 現在大学三年生。これから就職活動をしてくことになると思いますが。

まだ何も決まっていなくて(汗)、どうするのがベストなのか悩んでいます。今までの活動を踏まえた上で、自分がどのポジションを取るのが一番良いのかを模索している段階です。

ー メディアについて学んでいるので、そういった関係には興味はないですか?

写真が好きなので写真家とかフォトグラファーになってみたいなとは思っています。でも写真館とかだと日曜日は仕事をしなければいけないので(笑)、違う形でできたらと思っています。

いいですね。これまで取り組んできた地域活動と写真家としての活動を組み合わせれば、面白い形になりそうです。これからは、どう組み合わせていくかが大事な時代ですからね。

牟岐に残るのが理想

ー では最後に。ひとつむぎに参加したり、県外に出る考えがそもそもなかったりなど、牟岐町への想い…というか故郷が好きといった印象を受けているのですが、一方で宮崎が良かったなど、経験の中から生まれてくる「故郷との違いのギャップ」が悩みのタネになっているような気もします。

やっぱり愛着があるし、もともと人混みとか苦手で都会に行きたいというのもなくて。ただ田舎が好きで自然が好きなんです。自分の生まれた町で家族がいる町で、思い出が蓄積しているので牟岐町は大事な町です。現在、ひとつむぎや牟岐町の取り組みのお陰で牟岐町には大学生とか関係人口とかが増えていて、活性化している部分が間違いなくあると思いますが、耕作放棄地とかもまだまだ多く、土地は荒れていっているので、現実的に考えると問題は大きいなと思います。そこで町を捨てて外に出ていくことは簡単ですけど、先祖とか家族が大事にしているモノを私も大事にしたいと思っているので、現実的に対処していける方法を牟岐にいながら考えていきたいなと思っています。今の牟岐だったら色んな仲間がいるので出来そうな気がしています。

ー では就職とかでまだ悩んではいるけど、できれば牟岐に残ってそうした活動を行っていけたらということでしょうか。

それが一番の理想ですね。こどもたちが地域に愛着を持たないまま出ていく事とかはすごく寂しい事です。頭が良いとかよりも情の深い人たちが増えてくれたら良いなと思っています。

知華さんは言葉を選びながら自身の考えを伝えてくれました。その姿勢からは、「地元を愛する気持ち」と「外の世界を知ることで生まれる葛藤」が感じられました。牟岐町が好きだからこそ、地域の未来を考え、貢献したいという想いを持っていると感じます。しかし、宮崎での経験を通して「自分の町との違い」に気づき、より良くするためには何が必要なのかを模索しているようにも感じました。

また、「町を出ることは簡単。でも、先祖や家族が大切にしてきたものを守りたい。」そう語る知華さんの言葉には、地域に根ざしながらも、現実的な視点で未来を考えていきたいという強い意志を感じました。理想と現実の間で悩みながらも、牟岐町に残る道を模索する姿は、多くの若者が抱える「地元愛」と「新しい世界への興味」、そして「自分の生き方をどう社会に調和させるか」という普遍的なテーマとも重なります。

そしてこれは、知華さんだけの問題ではなく、牟岐町、さらには日本全体が抱える課題でもあると感じます。グローバル化が進む中で、故郷への想いが薄れつつある現代において、「先祖や家族が大切にしてきたものを、自分も大事にする」というごく当たり前の気持ちこそ、今こそ見直されるべき価値ではないでしょうか。知華さんの言葉を通して、その大切さを改めて考えさせられるインタビューとなりました。

牟岐町民として中から魅力を伝えていきたい – 【牟岐町役場】田岡佑輝さん

今回お話を伺ったのは田岡佑輝さん26歳(たおかゆうき)。徳島県阿南市出身の田岡さんは現在、牟岐町役場の産業課に勤務をしています。大学時に携わった”まちづくり”や”教育”に関する活動経験が牟岐町へと移住をするキッカケとなったそうです。その経験とは一体どんなモノ・コトだったのでしょうか?

興味は”まちづくり”と”教育”

– 田岡さんは元々どこの出身でしょうか?

出身は徳島県阿南市の羽ノ浦という町です。牟岐から車で1時間ぐらい離れたところで、生まれも育ちも羽ノ浦です。

– 小、中、高も阿南市でしょうか?

そうです。小学校も中学校も高校も。高校は阿南の富岡東高校というところでした。

– 阿南市出身の方が牟岐町役場で働くことを決め、牟岐町に移住をされたわけですが、牟岐町に関わるキッカケはどこにあったのでしょうか?

キッカケはちょうど徳島大学に入った時に部活やサークルを決めたりする中で、たまたま学生団体を紹介するイベントみたいなのをやっていて、このイベントで『NPO法人ひとつむぎ』が「こういう活動を牟岐でしてますよ」と紹介をしていて、僕はちょうど”まちづくり”とか”教育”に興味があったので、では参加してみようかというのがはじまりでした。

NPO法人ひとつむぎウェブサイト

NPO法人ひとつむぎ
徳島県南部にある牟岐町を拠点に、教育やまちづくりの支援を通じた地方創生を目指して活動するNPO法人。

– まちづくりとか教育とか、そうしたコトに興味をもっていたんですね。

はい。大学は総合科学部という、結構「何でもできます」といった学部だったんですけど、その中でも僕が一番興味があったのがまちづくりで。ちょうど自分が高校から大学に進学する時に、上勝とか神山のまちづくりの本を読んでいて、そうしたコトに興味があったので。そこでひとつむぎの活動が引っかったといった感じです。

– それだと2015年ぐらいの話でしょうか?

ええーと、2017年ですね。大学入ったのが17年ですので。

– 1年生の時からひとつむぎに入って活動をしていたと。

そうですね。大学4年間ずっと活動をしていました。

– ひとつむぎ以外で他に活動はしていなかったのでしょうか?

ひとつむぎと似たような活動のまちづくりサークルみたいなのにも入っていましたけど、そちらは活動自体が長く続かなかったですね。でもひとつむぎはずっとです。1年の頃からずっと関わってました。

– ひとつむぎでは具体的にどんなことをしていたのでしょうか?大学生ということは、ひとつむぎの活動をサポートする運営の方で活動をされていたんですよね?

そうです。参加する方じゃなくて運営側としてです。イベントを企画したりとか。まちづくりと教育で分かれていて、教育の方は中学生や高校生のキャリア教育が中心ですが、勉強を教えるというよりはこどもたちに自主性とか協調性を伝えるといったことだったり。例えばこどもたちがどんどん少なくなってきていて、同じこどもたちの関係性がずっと続いていく上で、それをどうやって解決していくか?といったことが課題としてあります。これを地域の大人の方と協力しながら、こどもたちが自分たちで勉強じゃない部分で成長できるようなプログラムを考えて、最後は成果発表みたいな形でしていました。

もう一つがまちづくりで、出羽島をフィールドにして島の人のコミュニティを作れたらということで、移動できる図書館を設置したりとか。あとは聞き書きといって、こういう形(インタビューを行っているような)で島の人の話を聞いて、その人の人生を聞き残して、それを例えばお孫さんとかお子さん読んで貰って、ああ、こういう人がこういう経験したんやないうのを文字で残すといった活動をしていました。

写真提供:田岡さん

あとは出羽島だけじゃなく、町の方でも秋祭りとか町民運動会に参加したりとか、町のちょっとした困りごとみたいなのも手伝いながら2つの軸で活動をしてました。

– 田岡さんはそうした活動をすることに”楽しさ”を見出していたのでしょうか?

そうですね。まちづくりだと、イベントをやったりするとパッと目に見えて成果が見えるというか。出羽島であんどん展というのをやったのですが、その時町の方に相談して協力してやらせてもらって。そしたら島の方々も喜んでくれて。教育に関してもこどもたちの成長が見えたりしたので。そうしたことが自分の中でやりがいとなり、次に繋がっていったかなと思います。

写真提供:田岡さん

– 大学生だともっと遊びたいとかゲームをして楽しいとか、そうしたことの方が単純に楽しいことではないか?と感じるのですが、田岡さんはなんというか、まちづくりという社会の中でやりがいを感じていたのでしょうか?もしくは将来のことを考え、そうした経験がキャリアとなることを考えていたのかとか。

ずいぶん真面目な話になってしまいましたが(笑)、やりがいを感じつつ、中学生と遊んだり、町の方とご飯を食べたり。遊びの部分もあったのが続けていけた理由だと思っています。ひとつむぎが良かったのは遊びもしっかりやりましょう!息抜きもしっかりしましょう!というところがあったので、バランスよく活動できたのが良かったのかなと思っています。社会的な問題を解決しましょう!だけだったら多分続いてはいないと思います。

– バランスが取れていた環境だったからこそ続けられたんですね。

キャリアのことを考えてそうした経験を積む意識はあったかもしれませんが、単純に活動が楽しかったというのが一番の理由です。大学生だったらバイト代も入らないですし(笑)。

– なので、たまたまひとつむぎという団体が牟岐町で活動していて、たまたまフィールドが牟岐町だったから田岡さんも牟岐町で活動することになったということなんですね。

そうですね。

写真提供:田岡さん

外からではなく、牟岐町民として中から

– その後、どんな流れで牟岐町役場に就職することになるのでしょうか?

就活時に自分のやりたいことがひとつむぎに関わることで見えてきました。それは地方の発信力が都会と比べて弱い点が課題としてありました。魅力があってもそれをいろんな人に届けないとここだけで終わってしまうのが課題で、キチンと発信できるような、魅力を広げれるような仕事がしたいと思っていました。

そこで、新聞社やテレビなどのメディア関係の会社を受けましたが、実際に地域にいる人間が盛り上げないと結局まちは衰退していくことも感じていました。そうした中で、まちを盛り上げようといった若い世代が牟岐には少しずつ増えてきたタイミングだったので、例えば5年後10年後に自分が牟岐に戻り、そうした人たちと協力して盛り上げるよりも、今の時点で牟岐と関わって5年後10年後を一緒に作っていくような形ができたら、牟岐は変わるのかなと思い、牟岐町役場に入って中から盛り上げることができないかと思い就職をしました。

– 今何年目ですか?

今4年目です。

– “まちを盛り上げようといった若い世代”というお話がありましたが、そうした先駆者のような方たちがいなかったら田岡さんはもしかしたら新聞社に就職してたかもしれないと。

そうですね。牟岐にはおらん可能性の方が高いですね。牟岐には関わっていたかもしれないけど、牟岐で働くという選択肢はなかったと思います。

– 実際に働いてみていかがですか?ひとつむぎの頃とは感覚がずいぶん違うと思いますが。

最初は鳥獣担当だったんでこれが行政の仕事なんだと感じながらやっていました(笑)。2年目は商工担当で、3、4年目は農業担当と、毎年担当が変わっています。なので、ひとつむぎの時に関わってきた人と関わる人が全然違うなと感じました。商工だったら商工会、農業だったら農協と、同じ牟岐でもひとつむぎの頃とは全く違う人と関わる事ができています。

あとはひとつむぎの頃にイベントで牟岐に来た時、役場の方たちが準備とかをやってくれていて、こちらの活動をとても支えてくれてたんだと、役場に入って改めて感じました。テント立てたり、ご飯の準備を大学生が出来るように買い出しをしたりと、かなり支えてくれてたんだと感じました。

– 今は田岡さんが逆に裏方として大学生達を支えていると。ひとつむぎの時と違う、ギャップみたいなものは感じはしなかったですか?

最初は「なんでこれをせなあかんのだろう?」と思ったこともありましたが、僕は毎年仕事をする上で1年間のテーマを決めるようにしています。例えば、一昨年のテーマは”町の方との信頼関係の構築”といったことだったのですが、もともと僕は牟岐の人間ではないので牟岐の歴史を学び、牟岐の人になれることから始めようとか、いろんな人に顔を知ってもらおうとか、人と会う回数を増やそうとしていました。なので、時に自分がやりたいこととは異なる仕事も住民の方と関わったり、仕事の幅を広げられたりする機会になるので、ひとつむぎの時とは違うなといったギャップは少ないです。

– ちなみに今年の目標はなんでしょうか?

年度でテーマを決めるので、2024年の4月に決めていることなのですが、今年度は小さくても実績を残すことです。農業担当が2年目ということで、1年目に仕事をして感じた課題と町の方や関係者の方からの聞き取りした内容をもとに、新たな取り組みを行うことができました。

魅力が外に発信されていく町になってくれたら

– 休みの日は何をして過ごしているのでしょうか?今のところお話を聞く限り、いつもまちづくりのことを考えてるようなイメージですが。

いえいえ(笑)。普段は野球を見るのが好きで、阪神タイガースファンでプロ野球を見ています。あとは動画を見たり本を読んでいます。

– 釣りとか自然を満喫するといったことはないですか?

かなりインドアですが、知人にサーフィンに誘われたり、昨年は鮎釣りに連れて行ってもらい20匹ぐらい釣れました。道具を貸してもらってオトリ鮎で釣りました。あんなに釣れるもんなんやとびっくりしました。でも竿を上げる筋力が全然足らなくて、大変でしたけど楽しかったです。

写真提供:田岡さん

– へぇ。鮎釣りは難しいと聞きますが、そんなに釣れたんですね。

自然が近い分、そういう機会はありますが自発的にはやってないです。誘ってもらったら頑張るといった感じですね。

– 頑張る(笑)。最後に、将来自分や牟岐町がこうなってほしいといった展望や想いなどはありますか?

牟岐は若者がちょっとずつ増えていってるなと感じています。移住するまでは出来ない人たちも関係人口としてなにかしら関わり続けてくれています。自分も含めて若い世代が、特に牟岐にゆかりのある人じゃない人たちも増えていくような形になってくれたらなと思っています。自分みたいに何かをキッカケに牟岐で働きたい、関わってみたいと思うこどもたちが増えてくれたら良いなと思います。そして、自分が牟岐に来たときから言っていた5年後10年後に、いろんな人たちが関わり魅力がきちんと外に発信されるような町になってくれたらええなと思います。ここに自分が一緒におれたら良いなと思っています。

– そこでさっきのギャップの部分について改めてお聞きしたいのですが、田岡さんは現在牟岐に来て4年が経ったわけです。そこで5年後10年後といった視点で考えると、約5年が経ちほぼ半分の地点に立っていると言えます。そこで当時の未来は現在なわけですが、自分が想い描いていた牟岐町に近づいていますか?

あ~…そうですね…確かに半分ですね。そうして考えてみれば牟岐町は自分の想像以上になっていると感じます。これだけ若者がいるような町になっているとは思いませんでした。自分がひとつむぎの時にはほぼ1つの団体しかなかったのが、今は他県の大学なども関わってきているので、いかに動くことで変わってくるんだなというのを感じています。なのでギャップという意味では逆に広がったと感じています。ただ惜しいのは自分がそこに直接関われたかと言うと分かりません。

もちろん裏方として動いており、プレーヤーではないわけですからね。そこは形としてはどうしても見えないかもしれませんが、必ず意味のあることではあると思います。

牟岐町の5年後10年後を一緒に作っていくことを考え、牟岐町役場へと就職をし移住をした田岡さん。そこから来年でひとつの節目である5年が経とうとしています。振り返ってみると過去の牟岐より今の牟岐は「思っていたよりも大きくなっている」とも表現をしてくれた田岡さん。大きくなっているとはとても抽象的な表現に聞こえるかもしれません。ですが、”大きい”という表現に僕は多くの意味が含まれているように感じました。それは人々の動き方であったり、人々の気持ち、移住をしたいという想いや、裏で支えている人々の気持ち。そして田岡さんがそうした人たちともっともっと一緒になり、形にしていきたいという想い。こうしたことすべてがこの”大きい”という言葉に含まれているのでないかと感じたインビューでした。おそらくこれからも裏方として牟岐町を支えていってくれる田岡さんの活動に期待したいと思います。

娘が生まれた事をキッカケに独立と移住 – 【Webメディア TOCHANTO(とうちゃんと)】 八木俊樹さん

今回話を伺ったのは八木俊樹さん(31歳)。大手総合情報サービス企業に務めていましたが、娘さんが生まれたことでその会社を辞め独立。2024年3月には大阪から家族で牟岐町へと移住。娘さんが生まれたのを期に八木さんの奥さんのご出身である牟岐町へ移住することを決めたそうですが、どのようにして移住するまでに至ったのでしょうか?

転勤よりも家族との時間を

ー 牟岐に移住をされたということでその経緯をお聞きできたらと思いますが、もともとご出身はどちらでしょうか?

出身は広島県の尾道市です。大学の時に大阪に出てまして、学生時代に妻と出会いました。その後2016年4月に新卒でリクルートという会社に就職をしまして、兵庫県、岡山県、熊本県と結構転々と転勤を繰り返していました。その後2023年の1月に独立をしてしばらく大阪で暮らしていまして、牟岐町に移住をしたのは2024年の3月になります。

ー 小中高は尾道で過ごしていたのでしょうか?

そうです。

ー リクルートを辞めて独立。そして牟岐町へ移住とは、どんな理由があったのでしょうか?

先ず、独立を決めたのは娘が生まれた日でして、娘の顔を見たときに家族との時間をできる限り増やしていきたいなと思ったのがキッカケです。その年の年末(2022年)に退職をして、独立をした形になります。

ー 会社に勤めているとなにかと忙しく、家族との時間を作るのが難しかったのでしょうか?

僕が岡山県にいる時に、妻は大阪に住んでいまして別居婚のような形で結婚生活がスタートしたんです。当時、大阪へ異動を希望していたのですが、蓋を開けると熊本に異動になりまして(笑)。

ー ん?それは奥さんもご一緒にですか?

いえ、妻は大阪で公務員をしていたのでもちろん1人です(笑)。この時にはじめて「転勤生活というのは家族と一緒に過ごすことはできないんだな…」と実感をしまして、違和感を感じました。それまでは会社を辞めるつもりは全くありませんでしたが…ましてやどこかに移住するなんてことも考えてもいませんでした。そこで独立という考えが少しあって、娘が生まれてそれが強くなったといった感じです。

ー 大阪を希望しているのに、より遠くに異動とはなかなかですね(笑)

異動する場合、ステップアップとしての異動なので喜ばしいことではあるので、いつも異動の際にはポジティブに捉えていましたが、その時初めてポジティブには考えられなくなりました

ー 熊本にはどのぐらいいたのでしょうか?

一年いました。その間もずっと戻してくれと上司に交渉をしていまして、一年後には大阪に戻ってこれました。

ー そこで娘さんが生まれ独立を決めることになるわけですが、どんな業種で独立をするなど決めていたのでしょうか?

それが全く決めていなくて(笑)。ただ、この会社にいる限りは転勤が避けられなかったので、とりあえず辞めようと。

ー 先ずは辞めるのが先だったと。

そうです。2022年の7月に娘が生まれたので、8月にはすでにそれを会社に伝えていました。共働きでしたし、貯金などを考えれば一年ぐらいはゆっくり考えられるかなと思っていましたのですぐに転職してってことは全く考えていなかったですし、リクルートの先輩方は独立されている方がたくさんいらっしゃったので、自分もなんとかなるかなと。

ー 確かにリクルートという会社はある種特殊というか、辞めるのが前提のような会社というイメージを僕は持っていますので、そもそも辞めることも抵抗がなかったと。

それはあるかもしれませんね。

ー リクルートでは新規事業を立ち上げる部署に所属していたのでしょうか?

僕は飲食情報関係の営業部に所属していましたので、飲食店に直接飛び込み営業などもしていました。名刺を破られたりなどありましたね(笑)。

ー 過酷な環境でお仕事をされていたんですね。

それが当たり前の社会で生きてきました(笑)。

ー すごいですね。僕はそうした経験はないのである種羨ましいというか、そうした経験をするには相当な勇気が必要です。八木さんはそれを乗り越えてきたんですね。

会社を辞めはしたが、そうした環境が嫌だったわけではないとも笑いながらお話をしてくれました

里帰り出産を機に牟岐での生活が

ー 独立するにあたり、どのように展開していったのでしょうか?

自分は営業経験しかなく営業しかできなかったので、企業様の営業が足りていない部分を補う”営業代行”という仕事と、リクルートに在籍している時にキャリアコンサルタントという資格を取得していたので、キャリアコンサルタントの仕事を軸にスタートしていきました。

ー なるほど。辞めた当初は何をするか全く決まっていなかったけど、自分のできることを考えたら自然とそうなっていったといった感じでしょうか。

まずは自分の経験から稼げるものをと思って考えました。これらだったらすぐにでもできるかなと思いまして。なので最初はとある大学の大学生の就職支援を行っていたりしましたし、残りの日は営業代行をしていました。

ー その傍らで子育てもしていたのでしょうか?

こうした仕事は週3日ぐらいで入って、残りの4日は家族との時間を過ごすようにしていました。

ー それが娘さんが生まれて間もない大阪での生活だと思いますが、その後牟岐町に移住することになったのはなぜでしょうか?大阪の暮らしも非常に順調に感じますが。

もともと移住は全く考えていませんでしたし、妻が公務員だったこともあり、大阪から離れることは考えていませんでしたが、ひとつのキッカケは妻の里帰り出産でした。その時の一年の半分ぐらいは牟岐で過ごす事が多かったんですが、自然が豊かで暮らしやすいなと感じましたし、大阪だとお互いの両親のサポートを受けにくい環境になってしまいます。なので牟岐にいる事で妻の両親のサポートを受けられるのは自分たちにとって大きかったですね。

ー 里帰り出産の際、牟岐に滞在している時もリモートでお仕事をされていたんですね。

モラスコむぎのコワーキングスペースを使って仕事をしていました。一ヶ月まるまる牟岐にいることもあったので、モラスコむぎには当時から本当にお世話になってます

ー 移住する前からそんなに利用されていたんですね。

そうなんです(笑)。決め手のひとつとなったのは保育園もあります。大阪だと「ここの保育園は良いけど倍率が…」「こっちの保育園は…」みたいな話がありますが、牟岐だったら一択だったので実は大きい(笑)。それで僕はこっちでも働けそうだし、妻もちょうど牟岐町役場の採用情報を見つけて、これが受かったら移住しようということで。それで無事採用され移住に至りました。

ー 奥さんも移住に関して全然後ろ向きではなかったんですね。

妻はもちろん地元ですし、僕も田舎育ち。夫婦で「こういった環境で子育てした方が良いんじゃないか?」みたいな感覚がありました。

ー そこで尾道という選択肢はなかったのでしょうか?

ああ…なかったですね。

ー それは興味深いですね。なぜでしょう?

それは、僕がこの数年で単純に牟岐が好きになっていたのはあるかもしれません。尾道よりももっと自然を感じられる感覚があって

現在、奥さんのご実家にご両親と一緒に住んでいるそうですが、普通であれば気を遣ってしまいそうです。八木さんはその辺りはわりとへっちゃらだと。

それはもう妻のご両親が素敵な方だなので。感謝感謝です!

子育てにサーフィンに磯釣り

ー 2024年3月に移住をして半年以上が経ちますが、連続して生活してみていかがでしょう?

めちゃくちゃ良いですね。仕事面では牟岐に来てから同世代の子どもを持つ父親にフォーカスをあてたWebメディア『TOCHANTO(とうちゃんと)』を立ち上げ、2025年から本格的にスタートさせています。

八木さんが立ち上げたWebメディア『TOCHANTO』

『遊観』や『モラスコむぎ』も使ってお仕事をすることも多いそうです

自由に表現する事を伝える場所-【遊観】下之坊竜治さん・堀江奈々子さん

仕事のスタイルは、基本的には夜8時頃になったら娘と一緒に寝て、明け方3時半には起きて6時まで仕事をして、そこから保育園に行くまで家族で一緒に過ごして、保育園に行っている間は仕事をして、16時に娘を迎えに行くので、保育園にいない時間はほとんど娘と一緒にいますね。

ー とても素敵な時間の使い方ですね。では牟岐での生活は自然を満喫するというよりは自然環境に身をおきながら家族との時間を大切にするといった感覚なのでしょうか?

そうですね。ただ僕自身は牟岐に来てからサーフィンをはじめたりしています。友人に連れて行ってもらった時に地元のサーファーの方々がすごく良くしてくれまして。牟岐だからこそハマれたと感じています。あと妻のお父さんが磯釣りをやっているので、何度か一緒に連れて行ってもらって、釣ったグレを娘に食べさせたりなどしています。今年は釣りにもハマりたいですね(笑)

写真提供:八木さん

ー すごい!サーフィンに磯釣りって、牟岐ならではな良いところを楽しんでいますね!

そうですね(笑)めちゃくちゃ牟岐の生活を満喫していると思います。なので、僕にとっても家族にとっても移住は正解だったと思います。保育園も10人ほどのクラスに先生が3人4人と付いてくれて本当に手厚い。大阪ではありえないです。こんな有り難い環境はないなと思っています。

今後は農業やイベント展開も

ー では最後に、今後の展望などがありましたらお聞かせください。

先ずは先程も紹介した『TOCHANTO』の事業を軌道にのせることが2025年の目標です。「働く場所がないんじゃない?」と大阪の友人などにもよく言われますし、その通りだと思っています。今後はTOCHANTO(とうちゃんと)を通じて、牟岐に興味を持つ人を増やしたり、牟岐の働く場所になるような事業・企業にしていきたいと思っています。あともうひとつ牟岐でやっていきたいことは『農』です。

写真提供:八木さん

ー へぇ。なぜ『農』なのでしょうか?

TOCHANTO(とうちゃんと)もそうなのですが、「家族の幸せと子どもの将来を守る、つくる」ことを自分のテーマとして活動していきたいと思っています。僕にとって、家族の日常や、娘のふるさと、将来を守る、つくることを考えた時に、やっぱり「食」は大きな軸になるし、大きな「課題」でもあるとこの1年牟岐で暮らしたことでより感じるようになりました。だからこそ小さくでも「農」には関わっていきたいと思っております。

あとは遊観やモラスコむぎを使って、町の皆様と一緒に家族が集まれるイベントなども積極的に行っていきたいなと思っています。TOCHANTO(とうちゃんと)と掛け合わせて色々できると感じています。

長年勤めた会社の退職に、子育て、独立、移住、そして新規事業の立ち上げなど、短期間で経験していることは決して誰でもできることではないし、それ相当の苦労があるはずですが、終始笑いながらお話をしてくれた八木さん。非常にポジティブなエネルギーを持った心の強い方だと感じました。また、このインタビューは遊観で行ったのですが、その後は遊観を運営している下之坊さんとこれからやっていきたいイベントの打ち合わせをしていました。ここでお話してくれた以外にもまだまだやりたいこと、やるべきことが八木さんにはあるので、今後の八木さんの動きに注目したいと同時に、牟岐町で起こることにも期待をしたいと思います。

 

経済的な豊かさではない豊かさを -【牟岐町地域おこし協力隊】真武未有さん

今回お話を伺ったのは徳島市国府町出身の真武未有さん(またけみう/23歳)。徳島県四国大学在学中にカナダなどの海外での生活を約9ヶ月経験し、帰国後は無事に卒業。その後は牟岐町の地域おこし協力隊として2024年4月に移住をし、活動をはじめています。企業に就職などと選択肢の多い若者がなぜ牟岐町に移住をし、地域おこし協力隊として活動することを選んだのでしょうか?

大学在学中に海外へ

ー なぜ牟岐町に移住をしたのか?の前に真武さんの背景についてお伺いできればと思います。学生の時はどのような事を学ばれていたのでしょうか?

もともと海外に興味があり、四国大学では国際文化学科という学科で語学や文化について学んでいました。

 

ー なぜ海外に興味があったのでしょうか?

母親が私が小さい時から英語に触れさせたいという思いがあって。というのも母親は学生時代に英語が苦手だったこともあり、それを自分の娘には無くしてあげたいと考えていたみたいで。小学生の時から英語の塾にも通っていたんですけど、実はキツくて嫌だったんです。でもそれが後になって役に立って。学校の中でも英語が出来る方だったので、それが楽しくてより好きになっていき、自然と海外に興味を持ったのかなと思います。

 

ー それでは大学進学の際にはそうした海外文化が学べる環境や学科一択だったのでしょうか?

実は一択ではなくて。本当は食の事を学びたいとも考えていたため、調理に関する専門学校も候補としてありました。でもまわりの先生などに「大学行ってからなら専門学校は行けるけど、専門学校から大学に行くとなると難しくなる」といったアドバイスを受けたので、「そーなのかなー」なんて思いながら大学に行くことにしました。

 

ー それで卒業をしたら実際に海外に行こうと決めていたと。

子供の頃から海外はずっと興味があったんですけどなかなか行ける機会がなくて。それで大学在学中に休学などして最後一年はフリータイムのような期間があったんです。「今がチャンスかも」と思って大学在学中に海外に行くことを決めました。

 

ー どこの国に行かれたのでしょうか?

カナダとヨーロッパに行っていました。カナダはワーキングホリデーで半年、ヨーロッパはボランティア留学という形で3ヶ月ほど、いろんな国を転々としていました。

海外旅中の一コマ

「心地よい」と感じた『ひとつむぎ』

ー 今のところ牟岐町との関わりが全く見えてきませんが、どのあたりで牟岐町と関わり、知ることになるのでしょうか?

大学1年生の時に『NPO法人ひとつむぎ』のメンバーになって、そこから『シラタマ活動(ひとつむぎのプロジェクトのひとつ)』をしたり、2年3年生の時には食に関することや、関係人口のPR活動をしていました。

NPO法人ひとつむぎウェブサイト

NPO法人ひとつむぎ
徳島県南部にある牟岐町を拠点に、教育やまちづくりの支援を通じた地方創生を目指して活動するNPO法人。

ー なるほど、そもそも『ひとつむぎ』を知るキッカケはなんだったのでしょうか?

同級生の越智さんが同じ学科で、「教育に興味がある」って話をしていたら『ひとつむぎ』の事を教えてもらいまして。

「また牟岐に帰りたいな」 / NPO法人ひとつむぎ – 越智日和さん

 

ー 『ひとつむぎ』のどのあたりに興味を持ったのでしょうか?

実は当初は何をするのかもよく分かっていないまま参加してみたのですが、大学生が中学生に学びの場を提供していて、参加してみたらすごい雰囲気が良くて、「あ、ここ心地よいな」「ここは私の場所だ」って感じてすぐにメンバーとして活動するようになりました。

 

ー へぇ、初日からピンと来たのでしょうか?

そうですね、初日から楽しくて。だから次も行こう、次も行こうってなり、繰り返していたらいつの間にか牟岐に入り浸るようになっていました。

ー 入り浸るようにですか。現にその枠を越えて地域おこし協力隊になっていますしね。海外に一度行くとその広さと文化の違いに、感動や驚きを感じるかと思いますが、もっと海外に長く住んでいたいと感じたりはしなかったですか?

日本に居るときより努力しなければいけないことが多すぎて…生きるのに精一杯なところもあって、今は一先ず日本の方が良いなとは思っています。

 

ー 確かに海外では気が抜ける日は一日もありませんからね。どのあたりで牟岐町の地域おこし協力隊として働こうと決めていたのでしょうか?

う〜ん…確かカナダに行くか行かないかぐらいの時でした。当時就職活動をしていたんですが、働く自分がいまいち想像ができなくて。就職しようかどうしようと悩んでいましたが、一先ず就活をやり切ることにしました。お陰でいくつか内定を頂くことができました。それで就活のなかでキャリアプランについて書く機会があったのですが、私のキャリアプランは牟岐町と関わっていくことが重要かなと思って。それで牟岐町で働こうと決めました。

 

ー 牟岐町で働くとなると選択肢は多くはないですが、他にも選択肢はあったと思います。なぜ地域おこし協力隊を選択したのでしょうか?

大学時代に他の地域の協力隊として関わっている人が多くおり、そうした人を知っていたため自分が働いている姿が想像しやすかったからかなと思います。

 

ー なるほど。例えば役場に就職よりも自分が活動している姿を想像しやすかったということですね。もっと言うと、『ひとつむぎ』の活動の延長として考えることができたということですね。

そうですね。そういったイメージを持てたので地域おこし協力隊としてやってみることにしました。

 

ー 募集要項も『ひとつむぎ』でやって来ていたことと近いものがあったと。

はい。情報発信であったり、関係人口のサポートであったり。あと個人的な活動として、牟岐町観光協会で記事を書かせてもらったり、牟岐町の教育委員会へインターンをし、関係人口のPR動画を作ったりしたこともあったので、それの延長にあると感じました。

取材をしたのは2024年7月。牟岐町の地域おこし協力隊として活動をスタートし約3ヶ月が経ちました。まだはじまったばかりなのでハッキリとお伝えすべき活動は出来ていませんが、真武さんは情報発信や関係人口のサポートなどを徐々に進めていっている段階です。

経済的な豊かさではない豊かさを

ー 真武さんの学生時代からの社会活動とも言える”関係人口”について伺いたいと思います。なぜ牟岐町には学生たちが訪れ、そうした学生たちがなぜ関係人口となっていくと感じますか?

『牟岐キャリアサポート』を運営している大西さんの存在は大きいと思いますし…う〜ん…やっぱり大西さんですかね(笑)

 

大学生らの歪さや面白さを感じて触発された – NPO法人牟岐キャリアサポート 大西浩正さん

 

ー それって客観的に見るととても不思議な構図に思えるのですが…というのも、もちろん大西さんや行政などの団体がいてはじめて成り立つことではありますが、一度訪れた後にもう一度関わりたいと思える魅力が牟岐町にはあるということになりますよね。そこにはなにかがあると思うのですがそのあたりって言語化できますか?

一時期、東北の方に行っていた期間があったんです。その時徳島県から外に出たことで牟岐町の良さを改めて感じることが出来たのですが、それは私が牟岐町と関わることになった最初に感じた「心地よさ」なんじゃないかなと思っていて、そこが牟岐町の魅力なんだなと感じています。

 

ー なるほど。真武さんが感じる「心地良さ」はどこから来るものなのでしょうか?地域の人の良さとかでしょうか?

そうですね、地域の人もそうですし、役場で地域のために関わっている人たちもそうです。関係人口として牟岐町に関わる大学生たちもそうです。よそ者として扱われることもありませんし、変に気を使われることもなく、一度入ってきたら仲間だよねという感覚は牟岐町ならではなのかなと感じています。

 

ー 確かに牟岐町は移住者を受け入れてくれる姿勢が他の地域とは全く違うなと僕も感じます。

ー もともと真武さんも関係人口だったわけですが、関係人口から牟岐町民となり約3ヶ月経ちました。町民として実際に活動してみていかがでしょうか?

大学生の頃から関わってきて、実際に移住をしてみるとやっぱり見えてくるものが全く違ってくるなと感じています。関係人口として関わっていた時は「牟岐町賑わっているな」「変わってきているな」なんてことを感じていましたが、実際に住んでみると感じていた賑わいは一時的なものなんだなーと感じたり、一時的に賑わっていてもそれを知らない町の人たちも沢山いる。今はそうした人たちに牟岐の魅力を再発見してもらえるような活動もしていきたいなと考えているところです。

 

ー 今まで客観的に見ていたけど、主観的になった事で見え方が変わってきたという事ですね。ではそう感じたことに対し、今後はどういったアクションを取っていきたいと考えていますか?

希望を持って私はこの町に移住をしたのに、ネガティブなことを町民の方から聞く機会も増えました。それを聞くととても悲しい気持ちになるので、そうではない明るい情報を届けれたらと思っています。『広報むぎ』で私の事を知ってくれている方も多かったので、先ずはそういった媒体を使って届けることができたら良いなと感じています。私はずっと働き方に悩んでいたんですが、牟岐町の大人たちは活き活きと働いている印象を受けたことが多かったんです。地域のために頑張ろうとかそういった志を持って働いている印象が強くあったので、私も牟岐町で一緒に働きたいと思ったんです。

 

ー 実際に移住して住んでみたら、ネガティブな部分も見えてきたということですね。

海外に出ていたというのも大きな要因としてあるように感じます。今日本全体がズーンと重い雰囲気なので。海外にいる時の海外の人たちはパン!とすごく明るかったんです。なので牟岐町に限らず日本ももっと明るくなってほしいなといった思いもあるんです。

 

ー だからこそ、地方から日本を元気にという思いで地域おこし協力隊として活動を始めたということですね。

そうです。経済的な豊かさももちろん大切ですが、そうではない豊かさを海外では感じたので、牟岐町もそうした豊かさがもっとあっても良いのかなと感じています。

 

ー そうではない豊かさ?それはどういうことでしょう?

関係人口として牟岐町に訪れる人たちって経済の事よりも、単に人の良さに惹かれて牟岐町に訪れるんです。牟岐町で過ごした時間が豊かだったなって感じていて。そうした体験からもう一回牟岐に帰りたいなって思っている人がすごく多いんです。

 

ー なるほど。僕も少なからず海外在住経験があるので理解ができるのですが、例えばアルゼンチンはある時期経済破綻をしていましたし、それ以降は非常に不安定な経済の渦中にあると言えます。しかしその一方でアルゼンチンの人たちは自国が潰れそうにも関わらず、自国が潰れそうなことと自分の幸せはイコールではないと考えている様子がどこかあり、とても明るくポジティブな人たちが多い印象を僕は持っています。

そうなんです。私がデンマークに行った時まわりはアルゼンチン人ばかりで、なぜかみんな底抜けに明るくて(笑)。

 

ー 牟岐町にもそうした人の良さ、ポジティブさ、人生の豊かさを感じられる部分を持ち合わせていると真武さんは感じていて、それをもっと地域おこしに活かせれたら良いと思っているのが、牟岐町に移住して3ヶ月経った今ということですね。

地域活性化や地方創生などといった事をトピックとする時、経済活動はどうしても切っても切り離せませんし、経済に繋がる産業は非常に重要です。しかし、そうした経済活動や産業などの以前に、人間の本質とも言える人と人が繋がる社会形成やコミュニケーション、そして個人の豊かさの追求はつい蔑ろになってしまっているのではないかと、今回真武さんにインタビューをしたことで感じました。

もちろん地域活性化を語る上で、経済活動や産業は町の大きな財政となるのでそうした事を考えて実行していくことが大前提ではあると思いますが、違う側面である「人の豊かさ」で地域をおこしていくアプローチは、外から来た人だからできるアプローチであると同時に、牟岐町に限らず今の日本全体において非常に重要なことなのではないかと感じたインタビューとなりました。

また、明治時代の日本は脱藩したことで大きく時代が動くことになりましたが、それは令和になった今の日本でも変わらないと僕は感じています。真武さんのように一度脱藩してみることで、新しい何かが見えてくるのはごく自然なことであり、それが新しい動きとなることは歴史がすでに教えてくれています。真武さんの今後の活動に期待したいと思います。